「光の子として」

2014.5.18.     礼 拝

 

エフェソ5:(P357)                          「光の子として」

 

私たちの魂は、イエスによって救われる前、失望、孤独、空しさ、偽り、死の恐怖などによって暗闇の状態でした。そして「皆同じ事をしている」と罪を軽く見、「罪を犯すのは自分の弱さやトラウマが原因だから、悔い改めなくてもよい」と自分をごまかし、だまして生活していました。しかし――

心の暗闇は、そんなごまかしや偽りの癒しによって晴れることはありません。

 

「今は主に結ばれて、光となっています」。光となるとは、イエスの真実の光に心の闇を照らされて、心に光をもつ者、真実を愛する者と変えられて、自分をごまかすことから聖化されることです。「聖化(イエスの聖さに与ること)」とは、禁欲や努力によって成しとげることではありません。その例がファリサイ人の祈りです(ルカ18:11-12)。罪を犯さないことや良い行いをすることが聖化ではありません。彼の間違いは聖化が信仰生活のゴールだと分っていながら、自分の力でやろうとしたことです。

聖化は、イエスの光に照らされる事と、その光の内に留まるという神と人との共同作業です。

 

 それはイエスの光に照され、聖霊に助けられて、光の子にふさわしいことを一つ一つ積み重ねていく生活で、簡単に成るものではありません。姦淫の罪で捕えられた女は、イエスの前にすべてをさらけ出して、罪が赦されただけでなく、イエスの光に心の闇が照らされ、聖化の一歩を踏み出しました(ヨハ8:11)。「世の光」であるイエスは(ヨハ8:12)と約束してくださっています。

イエスの光に心を照らされている光の子として、それにふさわしい生活をしましょう。

 

〔お祈り〕 天のお父様、御名を崇めます。御子の光で僕を照らし、聖霊の助けによって、自分をごまかさず、光の子らしく歩ませてください。イエス様の御名で。アーメン