月刊・シロアム

母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。(ヨハネによる福音書2章3-5節)

 

ガリラヤの町カナで婚礼の時のことです。お目出度い席で大変なことになりました。祝宴のためのぶどう酒が足りなくなったのです。その時の母マリアと御子イエス様の対話です。

さて、イエス様は母に対し「お母さん」と呼ばずに一般の成人女性に呼びかける「婦人よ」と言われ、さらに、「私とあなたと何の関係があるのか」とは、とても冷たく感じます。しかし、それは「わたしの時」とかかわっています。ヨハネはこの福音書の中で八回も「私の時」をくり返し使っています。

イエス様はいつもこの言葉をご自身の受難(十字架の死)を指して用いておられます。また、「ぶどう酒」は、イエス様が十字架上で流される「血」によってすべての人々に与えられる、新しい霊的な命と力を表しています。

この時、イエス様はご自身を普通の母子関係としてのマリアではなく、罪の赦しと解放を必要としている一人の女性として呼びかけられたのです。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3・23)とあるとおりです。

マリアはイエス様を自分が産んだ子ではあっても、神の御子、救い主と信じ、召し使いに「この方の言うとおりにしてください」と言い、水がぶどう酒に変わる奇跡が起きました。「信じるなら、神の栄光を見る」(同11・40)。

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」 (詩編126編5-6節)

 

実りの秋。収穫の秋です。

このみことばは、伝道の一つのやり方とその結果を歌っています。

福音=イエス様の十字架の死による私たち一人ひとりの罪の贖いのための死と復活を周りの人々に伝えることは楽なこととは言えません。

現在、わが国では信教の自由が保証され、大きな迫害もありませんが、イスラム教やヒンズー教、共産主義の国々では、イエス様を信じることは命がけのことです。また

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」(コヘレト11・1)とあるように、一所懸命証しをしても、聞き流され、無駄な努力と思う時もあるでしょう。だからこそ、泣きながら祈って神の恵みの体験談を語り伝えるのです。

イエス様も滅びゆく人々のことを心を痛めて「エルサレム、エルサレム、(中略)めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23・37)と嘆いておられます。

私たちが涙を流してとりなしながら聖霊に助けられて、イエス様の恵みを証しする時、「喜びの歌と共に刈り入れ、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰って」来られますし、水に浮かべて流したパンも「月日がたってから、それを見いだす」(コヘレト11・1)のです。涙と共に種を蒔き、収穫の実を喜んで刈り取りましょう。

ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。(Ⅰコリントの信徒への手紙31011節)

  

台風のシーズンです。今年もまた、ゲリラ豪雨や暴風によって河川が氾濫し、家が浸水によって破壊されたり、流されたりする災害が、あちこちで起きています。家を建てる時に、特に基礎工事(土台)がとても重要です。

私たちの人生を、家の建築にたとえて語っているのが、初めの聖句です。

私たちの人生の土台は、名誉や地位や財産ではなく、私たちの救い主であるイエス・キリスト以外にはありません。イエス様は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ72425節)と語っておられる。

初めの聖句の続きの12節以降に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、(終末のさばきの火に)、だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」(同12-15節)とあります。

まず、人生の土台を救い主イエス・キリストの上にしっかりと据え、その上に、主の霊の助けによって、愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結んで、主なる神様に喜んでいただける生き生きとしたキリストの証人となりましょう。

わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙58節)

 

まだ罪人であったとき

「罪人」とは犯罪人とか受刑者のことではありません。それは「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなって」(同121)、自分勝手に気の向くままに生きている人のことです。

そして、自分がどこから来て、どこへ行くのか、また、何のために生きているのかも知らないままで死んでいく人のことです。

キリストが死んでくださった

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって」(エフェ24)、御子イエス・キリストを人としてこの地に遣わしてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラ14)。

それが十字架です。十字架は神の義と神の愛が一つとなったものです。

神は愛を示された

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハ410)。

「自分の罪を公に言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(Ⅰヨハ19)。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。(コロサイ信徒への手紙114-15節)

 

御子イエス様は、すべてのものが造られる前からおられた方、すなわち、天地万物を創造された神様です。

また、イエス様は、私たちが目で見ることのできない神様を見ることができるように、神としての立場も身分も捨てて、私たちと同じ人としてこの世に来てくださった「見えない神の姿」なのです。だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ149)と言われました。

私たちは「神にかたどり、神に似せて造られたもの」です(創126)。つまり、私たち一人ひとりは「神のかたち(神の像)」である御子イエス様において造られたのです。

しかし、すべての人は神に逆らい、神になろうとしたため、エデンの園を追放されました(創323-24)。それは、人間本来の姿「神のかたち」を失ってしまったということです。

それでもなお、私たちを愛してくださる神は、私たちと和解し、関係を回復するために、御子イエス様を「人のかたち」として遣わしてくださいました。そして十字架にかかり、罪の代価である死を、あなたのために命を捨てて支払ってくださいました。あなたはすでに「罪の赦しを得ているのです」。

イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ1125)と約束してくださっています。

月別のメッセージ

カレンダー

2019年11月
« 10月    
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

facebook


わたしたちの教会は、

聖書信仰に立つ
正統的キリスト教会です。

門真キリスト教会
牧 師:前川 圭司
伝道師:濱崎 恵太
牧 師:濱崎かおり

日本アッセンブリーズ・
オブ・ゴッド教団

関西教区

https://ag-kansai.com 

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団・関西教区

access counter

  • 72710総閲覧数:
  • 2今日の閲覧数:
  • 31昨日の閲覧数: