月刊・シロアム

「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか」(イザヤ書44章15節)

 

まこと(誠、真、実)の神は、自ら「わたしはある」(出エジプト3・14)と宣言なさる、唯一の生ける方です。この神が天地万物を創造し、支配し、支えておられます。

この神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です(マタイ5・45)。

この神は「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46・3-4)と約束し、「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない」(イザ45・21)と言われる神です。

ところが「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」(詩編115・4-8)。

偶像とは「神や仏にかたどって作った、信仰するための像」と辞書にあります。

まことの神は、自分本来の姿に気づき、悔い改めた放蕩息子を抱きしめた父のように両手を広げ、私たちを待っていてくださる(ルカ15・11-24)。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(ヨハネによる福音書19章28節)

 

ある人が、痛みを和らげるため海綿に酸いぶどう酒を含ませ、イエス様に飲ませようとします(マタ27・48)。

これらのことは、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(詩69・22)の成就を示しています。

この時の、イエス様の「渇く」と言われた言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

もちろん、背中は鞭で打たれ、頭には茨の冠をかぶせられ、手足は釘づけにされての大量の出血のための渇きであることは言うまでもありません。

しかし、全く罪のない聖なる神の御子が私たちと同じ人となってこの世に来てくださった、その目的に思いをはせる時、それがただ喉の渇きだけではないことが分かります。

イエス様は、私たち一人ひとり、全ての人を背信の罪から贖って、神の子どもとしての立場を回復してくださるため、罪の代価である「死」を十字架の上で尊い命を捨てることによって支払ってくださったのです。イエス様は私たち一人ひとりをどこまでも愛してやまない深く大きな愛に飢え渇いておられたのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節)

「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので……。(列王記下6章17節)

 

イスラエルの民がアラム軍と戦っていた時のこと、イスラエルの預言者エリシャの召し使いが朝早く起きて外に出てみると、アラム軍の軍馬や戦車の軍隊が町を包囲していた。びっくりした従者は「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」と言うと、エリシャは「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者よりも多い」と言って、はじめの言葉のように祈ると従者の目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。(同15-17節)。また

アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが「彼らの目をくらましてください」と祈ると、主はアラムの軍の目をくらましたので、エリシャはシリヤ軍をサマリアまで連れて行った(同19節)。

私たちは、日々の生活の中で、どうしても、目で見る目の前の出来事に心をとらえられ、ふり回されることが多いのではないでしょうか。そして、どうしよう、どううすればいいのと、慌てふためくです。

そんな時こそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28・20)と約束されたイエスの御言葉を思い起こしましょう。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ12・1-2)。

見るべきものをはっきりと見られるよう霊の目を開いていただきましょう。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。(創世記1章1-3節)

 

初め地球は闇におおわれており、はっきりしない状況でした。「その時に」神が「光あれ」と言われると光があったとあり、ヘブライ人への手紙には「この世界が神の言葉によって創造され」たとあります(11・3)。

暗闇は、光が見えないので不安であり、恐れがあり、希望がありません。私たちの人生は、「一寸先が闇」と言われます。人生は時に、出口の見えない長いトンネルの中にあるように感じる時があります。不安や恐れや失望と戦わなくてはならない時です。

しかし、イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言っておられます(ヨハ16・33)。

使徒パウロは、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣によって苦しんでいる時、「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と告白しています(ロマ8・35-37)。

私たちも人生の途上で、苦難に出くわし、途方にくれ、行きづまり、希望を失うことがあります。しかし、そんな暗闇の中でも、神が「光あれ」と言われると、そこに光があるのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」です(詩119・105)。主の光に照らされて、私たちも「世の光」として生活できたら楽しいですね(マタ5・14-16)。

そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。(マルコによる福音書8章29節)

 

イエス様は、フィリポ・カイサリア地方に伝道に行く途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられた。すると、弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤ(旧約時代の預言者)だ」、「預言者の一人だ」と言っていると答えた。そこでイエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになった。

このイエス様の問いかけは、私たちすべての人に対するものです。宗教にもいろいろありますが、大切なことは「どなたを、どう信じるか」ということです。

私たち日本人は、キリスト教を西洋の宗教、イエス様を西洋人と誤解している人が多くいます。有名な画家が金髪で眼の青いイエス様を描いた肖像画のせいかも知れませんが。

神様は、私たちすべての人間を背信の罪の束縛から解放するために、御子イエス様をユダヤ人として遣わしてくださったのです。ユダヤのベツレヘムの馬小屋で生まれ、貧しい大工の子として、「神の身分でありながら(中略)、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。

「メシア」とは「救い主」ということです。イエス様は、あなたの背信の罪の身代わりとなって十字架に命を捨ててくださった。ペトロのように「あなたは私の救い主です」と告白しよう。

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