月刊・シロアム

ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。(Ⅰコリントの信徒への手紙31011節)

  

台風のシーズンです。今年もまた、ゲリラ豪雨や暴風によって河川が氾濫し、家が浸水によって破壊されたり、流されたりする災害が、あちこちで起きています。家を建てる時に、特に基礎工事(土台)がとても重要です。

私たちの人生を、家の建築にたとえて語っているのが、初めの聖句です。

私たちの人生の土台は、名誉や地位や財産ではなく、私たちの救い主であるイエス・キリスト以外にはありません。イエス様は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ72425節)と語っておられる。

初めの聖句の続きの12節以降に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、(終末のさばきの火に)、だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」(同12-15節)とあります。

まず、人生の土台を救い主イエス・キリストの上にしっかりと据え、その上に、主の霊の助けによって、愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結んで、主なる神様に喜んでいただける生き生きとしたキリストの証人となりましょう。

わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙58節)

 

まだ罪人であったとき

「罪人」とは犯罪人とか受刑者のことではありません。それは「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなって」(同121)、自分勝手に気の向くままに生きている人のことです。

そして、自分がどこから来て、どこへ行くのか、また、何のために生きているのかも知らないままで死んでいく人のことです。

キリストが死んでくださった

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって」(エフェ24)、御子イエス・キリストを人としてこの地に遣わしてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラ14)。

それが十字架です。十字架は神の義と神の愛が一つとなったものです。

神は愛を示された

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハ410)。

「自分の罪を公に言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(Ⅰヨハ19)。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。(コロサイ信徒への手紙114-15節)

 

御子イエス様は、すべてのものが造られる前からおられた方、すなわち、天地万物を創造された神様です。

また、イエス様は、私たちが目で見ることのできない神様を見ることができるように、神としての立場も身分も捨てて、私たちと同じ人としてこの世に来てくださった「見えない神の姿」なのです。だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ149)と言われました。

私たちは「神にかたどり、神に似せて造られたもの」です(創126)。つまり、私たち一人ひとりは「神のかたち(神の像)」である御子イエス様において造られたのです。

しかし、すべての人は神に逆らい、神になろうとしたため、エデンの園を追放されました(創323-24)。それは、人間本来の姿「神のかたち」を失ってしまったということです。

それでもなお、私たちを愛してくださる神は、私たちと和解し、関係を回復するために、御子イエス様を「人のかたち」として遣わしてくださいました。そして十字架にかかり、罪の代価である死を、あなたのために命を捨てて支払ってくださいました。あなたはすでに「罪の赦しを得ているのです」。

イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ1125)と約束してくださっています。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。(コロサイ信徒への手紙114-15節)

 

まず、神の御子イエス様は「見えない神の姿」です。それはイエス様が見ることのできない神様を、私たちが見ることができるように、私たちと同じ人間となってこの地上で生活してくださったということです。だからイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われました(ヨハ149)。また「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハ114)とあります。

次に、イエス様は万物の造り主です。イエス様は「すべてのものが造られる前」からおられ、「万物は御子において造られたからです」(同16節)。

神は人を創造なさる時、「わたし」ではなく「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたことに示されています(創126)。

そして、イエス様は、私たち一人ひとりの罪を贖い、赦すために十字架に釘打たれ、尊い神の小羊として命を捨ててくださったのです。それは「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」からです(ヘブ922)。

私たちは「以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(コロ121)。しかし、神は御子の「十字架の血によって平和を打ち立て、御子によって、御自分と和解させられました」(同120)。

イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。(マルコによる福音書19-10節)

 

洗礼者ヨハネが、罪の悔い改めを宣べ伝え、ヨルダン川で洗礼を授けていた時、イエス様が来られて洗礼を受けられました。イエス様は罪のない神の御子ですから、罪を悔い改める必要はないのにです。それは人となられたイエス様が「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」からです(ヘブ217)。

イエス様が水の中から上がられるとすぐ、「天が裂けた」と記されています。罪のとりことなっている私たちは、心の目が閉ざされて、真の神様を見ることができません。だから、イエス様を信じる者の心の目が開かれ、はっきりと愛の神様を見ることができるようにしてくださるのです。

イエス様が私たち一人ひとりの身代わりとなって十字架に命をささげてくださり、「成し遂げられた」と言い、息を引き取られた時(ヨハ1930)、神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マル1538)。そうして

「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉(十字架)を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(ヘブ1020)。それで「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(同1019)。

天は開かれています。信仰の目を上げて救い主イエス様を仰ぎ見ましょう。

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