月刊・シロアム

「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので……。(列王記下6章17節)

 

イスラエルの民がアラム軍と戦っていた時のこと、イスラエルの預言者エリシャの召し使いが朝早く起きて外に出てみると、アラム軍の軍馬や戦車の軍隊が町を包囲していた。びっくりした従者は「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」と言うと、エリシャは「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者よりも多い」と言って、はじめの言葉のように祈ると従者の目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。(同15-17節)。また

アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが「彼らの目をくらましてください」と祈ると、主はアラムの軍の目をくらましたので、エリシャはシリヤ軍をサマリアまで連れて行った(同19節)。

私たちは、日々の生活の中で、どうしても、目で見る目の前の出来事に心をとらえられ、ふり回されることが多いのではないでしょうか。そして、どうしよう、どううすればいいのと、慌てふためくです。

そんな時こそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28・20)と約束されたイエスの御言葉を思い起こしましょう。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ12・1-2)。

見るべきものをはっきりと見られるよう霊の目を開いていただきましょう。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。(創世記1章1-3節)

 

初め地球は闇におおわれており、はっきりしない状況でした。「その時に」神が「光あれ」と言われると光があったとあり、ヘブライ人への手紙には「この世界が神の言葉によって創造され」たとあります(11・3)。

暗闇は、光が見えないので不安であり、恐れがあり、希望がありません。私たちの人生は、「一寸先が闇」と言われます。人生は時に、出口の見えない長いトンネルの中にあるように感じる時があります。不安や恐れや失望と戦わなくてはならない時です。

しかし、イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言っておられます(ヨハ16・33)。

使徒パウロは、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣によって苦しんでいる時、「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と告白しています(ロマ8・35-37)。

私たちも人生の途上で、苦難に出くわし、途方にくれ、行きづまり、希望を失うことがあります。しかし、そんな暗闇の中でも、神が「光あれ」と言われると、そこに光があるのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」です(詩119・105)。主の光に照らされて、私たちも「世の光」として生活できたら楽しいですね(マタ5・14-16)。

そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。(マルコによる福音書8章29節)

 

イエス様は、フィリポ・カイサリア地方に伝道に行く途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられた。すると、弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤ(旧約時代の預言者)だ」、「預言者の一人だ」と言っていると答えた。そこでイエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになった。

このイエス様の問いかけは、私たちすべての人に対するものです。宗教にもいろいろありますが、大切なことは「どなたを、どう信じるか」ということです。

私たち日本人は、キリスト教を西洋の宗教、イエス様を西洋人と誤解している人が多くいます。有名な画家が金髪で眼の青いイエス様を描いた肖像画のせいかも知れませんが。

神様は、私たちすべての人間を背信の罪の束縛から解放するために、御子イエス様をユダヤ人として遣わしてくださったのです。ユダヤのベツレヘムの馬小屋で生まれ、貧しい大工の子として、「神の身分でありながら(中略)、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。

「メシア」とは「救い主」ということです。イエス様は、あなたの背信の罪の身代わりとなって十字架に命を捨ててくださった。ペトロのように「あなたは私の救い主です」と告白しよう。

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネによる福音書20章16節)

 

イースターを心から感謝します。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアたちが、イエス様のご遺体に香油を塗るため墓に行きましたが、墓の入口を塞いでいた大きな石が取りのけられ、墓が空になっていました。

マリアが墓の外に立って泣いていると二人の天使が、イエスが復活されたと告げました(ルカ24・6-7)。

そして後ろを振り向くと、イエスが立っておられたが、その方がイエスだと分からなかったのです(ヨハ20・14)。

イエス様が聞きなれたやさしいお声で「マリア」と呼ばれると、マリアははっと気がついて「先生」と答えます。

 

イエス様の復活は四つの福音書のすべてに記録されています。イエス様の復活は、全能の神のみわざです。

まず、女の人の力では動かせない墓の入口を塞ぐ大きな石が地震によって取り除かれたこと(マタイ28・2)。そして、確かに葬ったはずのイエス様のご遺体が、くるんでいた白い布だけを残してなかったこと(ルカ24・3)。

さらに、何よりも、復活されたイエス様が最初に現れたのは、イエス様が選ばれた12弟子たちではなく、当時、ユダヤ社会では、立場の低い女性であったことは驚くべきことです。

イエス様はすべての人を愛してくださっていますが、特に弱い人、立場の低い人を愛してくださるお方です。

向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。(マタイによる福音書21章2-3節)

 

イエス様は、王の王として白馬にではなく、子ろばに乗ってエルサレムに入城された。それは(4~5節)で旧約の(イザ62・11)と(ゼカ9・9)の預言を成就するためでした。

このことは、ローマ帝国の圧政から解放してくれるメシア(救世主)を待ち望んでいたユダヤの民を失望させることでした。しかし、この時、群集は服を道に敷き、木の枝を切って道に敷いて、イエス様の前後を「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(同9節)と叫びながらイエス様を歓迎しました。しかし、この数日後、群集はイエス様を「十字架につけろ」と叫び続けたのです(マタイ27・23。マルコ15・14。ルカ23・21。ヨハネ19・6)。人間はいかに無知で強情で高慢なのでしょうか。

それに引き替えて、どこまでイエス様は柔和で謙遜なお方なのでしょうか。イエス様が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」(フィリ2・8)あられたからこそ、私たちは尊いみ救いに与り今の恵みがあるのです。

「主がお入り用なのです」。主は世の終わりの間近い今、イエス様の福音を乗せて世に出て行く「子ろば」を求めておられます。「わたしは福音を恥としない」(ロマ1・16)。使徒パウロにつづきましょう。

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