月刊・シロアム

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネによる福音書20章16節)

 

イースターを心から感謝します。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアたちが、イエス様のご遺体に香油を塗るため墓に行きましたが、墓の入口を塞いでいた大きな石が取りのけられ、墓が空になっていました。

マリアが墓の外に立って泣いていると二人の天使が、イエスが復活されたと告げました(ルカ24・6-7)。

そして後ろを振り向くと、イエスが立っておられたが、その方がイエスだと分からなかったのです(ヨハ20・14)。

イエス様が聞きなれたやさしいお声で「マリア」と呼ばれると、マリアははっと気がついて「先生」と答えます。

 

イエス様の復活は四つの福音書のすべてに記録されています。イエス様の復活は、全能の神のみわざです。

まず、女の人の力では動かせない墓の入口を塞ぐ大きな石が地震によって取り除かれたこと(マタイ28・2)。そして、確かに葬ったはずのイエス様のご遺体が、くるんでいた白い布だけを残してなかったこと(ルカ24・3)。

さらに、何よりも、復活されたイエス様が最初に現れたのは、イエス様が選ばれた12弟子たちではなく、当時、ユダヤ社会では、立場の低い女性であったことは驚くべきことです。

イエス様はすべての人を愛してくださっていますが、特に弱い人、立場の低い人を愛してくださるお方です。

向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。(マタイによる福音書21章2-3節)

 

イエス様は、王の王として白馬にではなく、子ろばに乗ってエルサレムに入城された。それは(4~5節)で旧約の(イザ62・11)と(ゼカ9・9)の預言を成就するためでした。

このことは、ローマ帝国の圧政から解放してくれるメシア(救世主)を待ち望んでいたユダヤの民を失望させることでした。しかし、この時、群集は服を道に敷き、木の枝を切って道に敷いて、イエス様の前後を「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(同9節)と叫びながらイエス様を歓迎しました。しかし、この数日後、群集はイエス様を「十字架につけろ」と叫び続けたのです(マタイ27・23。マルコ15・14。ルカ23・21。ヨハネ19・6)。人間はいかに無知で強情で高慢なのでしょうか。

それに引き替えて、どこまでイエス様は柔和で謙遜なお方なのでしょうか。イエス様が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」(フィリ2・8)あられたからこそ、私たちは尊いみ救いに与り今の恵みがあるのです。

「主がお入り用なのです」。主は世の終わりの間近い今、イエス様の福音を乗せて世に出て行く「子ろば」を求めておられます。「わたしは福音を恥としない」(ロマ1・16)。使徒パウロにつづきましょう。

イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(ルカによる福音書7章12-13節)

 

イエス様の恵みを体験し喜んでいる人々、イエス様の恵みを求めてついて行く人々、死者を葬るための葬列と出会う、ナインの町の情景は、この世の情景の縮図です。

イエス様は、一人息子が死んで悲しみのどん底にあるやもめの母親を見て、「憐れに思い=断腸の思い」をもたれました。彼女は夫に先立たれ、杖とも柱とも頼んでいた一人息子にも先立たれました。どんな気持ちであったか。

イエス様は、この母親の苦痛をわがことのように共感されて、「もう泣かなくともよい」と言われました。この言葉の意味は、「私があなたの悲しみの原因を取り除いてあげるから、もう泣くことはありませんよ」ということです。イエス様はあなたの涙の原因、涙の意味をすべてご存知であるだけでなく、それを解決してくださる愛と憐れみの方なのです。そして

イエス様は死者に触れると汚れると禁じられている律法(民19・11)をあえて越えて、棺に触れ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、息子を生き返らせて母親にお返しになりました(同14-15節)。

イエス様は、私たち一人一人の罪を贖うため十字架に死んで葬られ、三日目に墓からよみがえられただけでなく、イエス様を信じる人を復活させ、永遠の命を与えてくださるのです。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

あなたたちはそれを悟らないのか。

わたしは荒れ野に道を敷き

砂漠に大河を流れさせる。(イザヤ書43章19節)

 

結婚の日取りが決まっているのに、バラック小屋のような借家に住んでいました。何が何でも新居には、と思い、当時生け花を教えに来てくださっていた仲舎姉妹のお宅へ内林みよ姉妹と徹夜祈祷に行きました。午前2時頃はっきりと神の御声が聞こえました。「汝、まだ信ぜぬか。わが為す業を待て」と。

この御言葉がどこにあるのか聖書を調べてみると、それは「視よわれ新しき事をなさん、やがておこるべし」というイザヤ書のはじめに記した御言葉です。

それから一週間ぐらい後に、電柱の「貸家あり」という貼り紙を見、家主と交渉に行きましたが、なんとその物件は以前に交渉して、「キリスト教の集会をしたい」と言って断わられたものでした。しかし、諦めないでねばり強くお願いして借りることができました。

そこが新居であり、一九六五年から一九七一年に守口市の梶町に転居するまで、尾崎キリスト教会、都島伝道所として宣教しました。一九七一年から一九八〇年に現在の門真に転居するまで守口市の梶町で宣教しました。

「我が名は不思議なり」(士13・18)と言われる主は、いろいろと不思議な新しいことを為してくださる方です。

今年も一年、この主なる神様の為される新しい御業に期待して力を合わせて前進して行きましょう。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。(マタイによる福音書1章18節)

 

クリスマスおめでとうございます。

イエス様が結婚する前の処女マリアが聖霊によって身ごもって生まれたということは、イエス様が人であると同時に神であられることを示しています。

イエス様の処女降誕は、旧約聖書の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)の預言の成就であり、インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です(同23節)。

また「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ9・5)とイエス様が神であることの預言です。

さらに、イエス様の聖霊による処女降誕は、イエス様が罪のない聖なるお方であることの証明です。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4・4-6)ともあります。

私たちの救い主であるイエス様を心から喜んでお迎えするのがクリスマス(キリストの祭)です。

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