月刊・シロアム

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」(ヨブ記38章1節)

 

ヨブは、自分の知らない理由ですべてのものを失い、自分自身も耐えられないような重い皮膚病で苦しみます。

彼を慰め励ましに来た友人たちは慰めるどころか、「お前がそんな目にあうのは、罪を犯したからだ」と言ってヨブを苦しめました。

友人から非難され、苦しむヨブは、神様にその答えを求めました。

口語訳聖書では、前記のみことばの前に「この時」と記されています。ヨブがその答えを直接神様に求めた時、神様は嵐の中からヨブに答えられたのです。

私たちは、自分ではどうすることもできないような人生の嵐に出会うことによって、自分の弱さ、自分の本当の姿に気づかされます。そしてそんな時にこそ神の語りかけを聞くことができるのです。

ヨブは自分のいきどおりを神様に訴えたのは、本当は神様によって毎日生かされていることに気づいていなかったからです。ヨブは自分の力で正しい生活をしているとうぬぼれてたので、神様はヨブは本当はどんな人間であるかを分からせるために、嵐の中から語られたのです。

神様は2節から「これは何者か」とヨブに答えておられますが、ヨブの苦しみの答えを語らず、答えにならない答えを持ってヨブに答えておられます。

私たちも人生の中で「なんで?」と思うようなことを体験しますが、それは本当の自分の姿を知り、それでもなお愛し、生かしてくださる神の愛に気づくためなのです。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(マタイによる福音書9章37-38節)

 

イエス様は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ、弟子たちに、右記のように命じられました。

また、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハ4・35)とも言われました。

実りの秋、収穫の秋です。しかし、ここでイエス様が言っておられるのは穀物などの収穫のことではありません。人々が飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見、深く憐れまれて語られたのです。

今、私たちが生活している世間は、コロナウイルスの感染に対する不安や恐れ、それに伴う経済の不況の心配と正に人々は「飼い主のいない羊のように弱り果てている」のではないでしょうか。

イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来ないさい。休ませてあげよう」(マタ11・28)と招いてくださっています。

もし、あなたが罪の支配するこの闇の世の生活に重荷を負い疲れておられるなら、それをイエス様の元にもって来て、自分勝手に生きて来た神様に対する背信の罪を告白し、悔い改めて、今の情況から解放されてはいかがでしょうか。

「神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」(Ⅰヨハ4・8-9)。

「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか」(イザヤ書44章15節)

 

まこと(誠、真、実)の神は、自ら「わたしはある」(出エジプト3・14)と宣言なさる、唯一の生ける方です。この神が天地万物を創造し、支配し、支えておられます。

この神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です(マタイ5・45)。

この神は「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46・3-4)と約束し、「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない」(イザ45・21)と言われる神です。

ところが「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」(詩編115・4-8)。

偶像とは「神や仏にかたどって作った、信仰するための像」と辞書にあります。

まことの神は、自分本来の姿に気づき、悔い改めた放蕩息子を抱きしめた父のように両手を広げ、私たちを待っていてくださる(ルカ15・11-24)。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(ヨハネによる福音書19章28節)

 

ある人が、痛みを和らげるため海綿に酸いぶどう酒を含ませ、イエス様に飲ませようとします(マタ27・48)。

これらのことは、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(詩69・22)の成就を示しています。

この時の、イエス様の「渇く」と言われた言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

もちろん、背中は鞭で打たれ、頭には茨の冠をかぶせられ、手足は釘づけにされての大量の出血のための渇きであることは言うまでもありません。

しかし、全く罪のない聖なる神の御子が私たちと同じ人となってこの世に来てくださった、その目的に思いをはせる時、それがただ喉の渇きだけではないことが分かります。

イエス様は、私たち一人ひとり、全ての人を背信の罪から贖って、神の子どもとしての立場を回復してくださるため、罪の代価である「死」を十字架の上で尊い命を捨てることによって支払ってくださったのです。イエス様は私たち一人ひとりをどこまでも愛してやまない深く大きな愛に飢え渇いておられたのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節)

「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので……。(列王記下6章17節)

 

イスラエルの民がアラム軍と戦っていた時のこと、イスラエルの預言者エリシャの召し使いが朝早く起きて外に出てみると、アラム軍の軍馬や戦車の軍隊が町を包囲していた。びっくりした従者は「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」と言うと、エリシャは「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者よりも多い」と言って、はじめの言葉のように祈ると従者の目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。(同15-17節)。また

アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが「彼らの目をくらましてください」と祈ると、主はアラムの軍の目をくらましたので、エリシャはシリヤ軍をサマリアまで連れて行った(同19節)。

私たちは、日々の生活の中で、どうしても、目で見る目の前の出来事に心をとらえられ、ふり回されることが多いのではないでしょうか。そして、どうしよう、どううすればいいのと、慌てふためくです。

そんな時こそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28・20)と約束されたイエスの御言葉を思い起こしましょう。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ12・1-2)。

見るべきものをはっきりと見られるよう霊の目を開いていただきましょう。

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