月刊・シロアム

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

あなたたちはそれを悟らないのか。

わたしは荒れ野に道を敷き

砂漠に大河を流れさせる。(イザヤ書43章19節)

 

結婚の日取りが決まっているのに、バラック小屋のような借家に住んでいました。何が何でも新居には、と思い、当時生け花を教えに来てくださっていた仲舎姉妹のお宅へ内林みよ姉妹と徹夜祈祷に行きました。午前2時頃はっきりと神の御声が聞こえました。「汝、まだ信ぜぬか。わが為す業を待て」と。

この御言葉がどこにあるのか聖書を調べてみると、それは「視よわれ新しき事をなさん、やがておこるべし」というイザヤ書のはじめに記した御言葉です。

それから一週間ぐらい後に、電柱の「貸家あり」という貼り紙を見、家主と交渉に行きましたが、なんとその物件は以前に交渉して、「キリスト教の集会をしたい」と言って断わられたものでした。しかし、諦めないでねばり強くお願いして借りることができました。

そこが新居であり、一九六五年から一九七一年に守口市の梶町に転居するまで、尾崎キリスト教会、都島伝道所として宣教しました。一九七一年から一九八〇年に現在の門真に転居するまで守口市の梶町で宣教しました。

「我が名は不思議なり」(士13・18)と言われる主は、いろいろと不思議な新しいことを為してくださる方です。

今年も一年、この主なる神様の為される新しい御業に期待して力を合わせて前進して行きましょう。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。(マタイによる福音書1章18節)

 

クリスマスおめでとうございます。

イエス様が結婚する前の処女マリアが聖霊によって身ごもって生まれたということは、イエス様が人であると同時に神であられることを示しています。

イエス様の処女降誕は、旧約聖書の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)の預言の成就であり、インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です(同23節)。

また「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ9・5)とイエス様が神であることの預言です。

さらに、イエス様の聖霊による処女降誕は、イエス様が罪のない聖なるお方であることの証明です。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4・4-6)ともあります。

私たちの救い主であるイエス様を心から喜んでお迎えするのがクリスマス(キリストの祭)です。

母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。(ヨハネによる福音書2章3-5節)

 

ガリラヤの町カナで婚礼の時のことです。お目出度い席で大変なことになりました。祝宴のためのぶどう酒が足りなくなったのです。その時の母マリアと御子イエス様の対話です。

さて、イエス様は母に対し「お母さん」と呼ばずに一般の成人女性に呼びかける「婦人よ」と言われ、さらに、「私とあなたと何の関係があるのか」とは、とても冷たく感じます。しかし、それは「わたしの時」とかかわっています。ヨハネはこの福音書の中で八回も「私の時」をくり返し使っています。

イエス様はいつもこの言葉をご自身の受難(十字架の死)を指して用いておられます。また、「ぶどう酒」は、イエス様が十字架上で流される「血」によってすべての人々に与えられる、新しい霊的な命と力を表しています。

この時、イエス様はご自身を普通の母子関係としてのマリアではなく、罪の赦しと解放を必要としている一人の女性として呼びかけられたのです。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3・23)とあるとおりです。

マリアはイエス様を自分が産んだ子ではあっても、神の御子、救い主と信じ、召し使いに「この方の言うとおりにしてください」と言い、水がぶどう酒に変わる奇跡が起きました。「信じるなら、神の栄光を見る」(同11・40)。

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」 (詩編126編5-6節)

 

実りの秋。収穫の秋です。

このみことばは、伝道の一つのやり方とその結果を歌っています。

福音=イエス様の十字架の死による私たち一人ひとりの罪の贖いのための死と復活を周りの人々に伝えることは楽なこととは言えません。

現在、わが国では信教の自由が保証され、大きな迫害もありませんが、イスラム教やヒンズー教、共産主義の国々では、イエス様を信じることは命がけのことです。また

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」(コヘレト11・1)とあるように、一所懸命証しをしても、聞き流され、無駄な努力と思う時もあるでしょう。だからこそ、泣きながら祈って神の恵みの体験談を語り伝えるのです。

イエス様も滅びゆく人々のことを心を痛めて「エルサレム、エルサレム、(中略)めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23・37)と嘆いておられます。

私たちが涙を流してとりなしながら聖霊に助けられて、イエス様の恵みを証しする時、「喜びの歌と共に刈り入れ、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰って」来られますし、水に浮かべて流したパンも「月日がたってから、それを見いだす」(コヘレト11・1)のです。涙と共に種を蒔き、収穫の実を喜んで刈り取りましょう。

ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。(Ⅰコリントの信徒への手紙31011節)

  

台風のシーズンです。今年もまた、ゲリラ豪雨や暴風によって河川が氾濫し、家が浸水によって破壊されたり、流されたりする災害が、あちこちで起きています。家を建てる時に、特に基礎工事(土台)がとても重要です。

私たちの人生を、家の建築にたとえて語っているのが、初めの聖句です。

私たちの人生の土台は、名誉や地位や財産ではなく、私たちの救い主であるイエス・キリスト以外にはありません。イエス様は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ72425節)と語っておられる。

初めの聖句の続きの12節以降に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、(終末のさばきの火に)、だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」(同12-15節)とあります。

まず、人生の土台を救い主イエス・キリストの上にしっかりと据え、その上に、主の霊の助けによって、愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結んで、主なる神様に喜んでいただける生き生きとしたキリストの証人となりましょう。

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