2020年9月 第453号 「偶像」
「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか」(イザヤ書44章15節)
まこと(誠、真、実)の神は、自ら「わたしはある」(出エジプト3・14)と宣言なさる、唯一の生ける方です。この神が天地万物を創造し、支配し、支えておられます。
この神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です(マタイ5・45)。
この神は「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46・3-4)と約束し、「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない」(イザ45・21)と言われる神です。
ところが「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」(詩編115・4-8)。
偶像とは「神や仏にかたどって作った、信仰するための像」と辞書にあります。
まことの神は、自分本来の姿に気づき、悔い改めた放蕩息子を抱きしめた父のように両手を広げ、私たちを待っていてくださる(ルカ15・11-24)。