2020年8月 第452号 「渇く」

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(ヨハネによる福音書19章28節)

 

ある人が、痛みを和らげるため海綿に酸いぶどう酒を含ませ、イエス様に飲ませようとします(マタ27・48)。

これらのことは、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(詩69・22)の成就を示しています。

この時の、イエス様の「渇く」と言われた言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

もちろん、背中は鞭で打たれ、頭には茨の冠をかぶせられ、手足は釘づけにされての大量の出血のための渇きであることは言うまでもありません。

しかし、全く罪のない聖なる神の御子が私たちと同じ人となってこの世に来てくださった、その目的に思いをはせる時、それがただ喉の渇きだけではないことが分かります。

イエス様は、私たち一人ひとり、全ての人を背信の罪から贖って、神の子どもとしての立場を回復してくださるため、罪の代価である「死」を十字架の上で尊い命を捨てることによって支払ってくださったのです。イエス様は私たち一人ひとりをどこまでも愛してやまない深く大きな愛に飢え渇いておられたのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節)