2016年4 月 第400号

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカによる福音書24章27節)

 

わたしたちの罪の代価の身代わりとなって十字架に命をささげてくださり墓に葬られ、三日目に死人の中から初穂として復活されたイエス様は、その日の夕方、エマオという村へ向かって歩く二人の弟子たちに近づき、肩を並べて歩かれましたが、二人はイエス様だと分かりませんでした。それは二人の目が遮られていたからです(同16節)。

彼らは、イエス様にイエス様の復活について話すのですが、わたしたちはあの方こそメシアだと「望みをかけていました」と失望を語り(同21節)、空の墓を目撃した婦人たちの報告を聞いても「わたしたちを驚かせ」たにすぎないことであり(同22節)、御使いの「イエスは生きておられる」という証言も、「と告げたと言う」と単なる情報として受けとめただけです(同23節)。

心の目が遮られて、イエス様のことが信じられない弟子たちに、イエス様は道々、聖書全体をとおして証しされている御自分のことについて説明してくださいました(同27節)。

エマオに着いた時、二人の弟子たちは「一緒にお泊まりください」とイエス様を「無理に引き止め」ました(同29節)。「一緒に食事の席に着き」、イエス様が賛美とお祈りをしてパンを裂いてお渡しになった時、「二人の目が開け、イエスだと分か」りました(同30、31節)。

正しい聖書の解き明かしをしっかり聞いて心が燃やされ(同32節)、十字架に引き裂かれたイエスを見上げる時、復活の主と出会うことができるのです。