2013年2月 第362号 「良くなりたいか」
そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、(中略)「良くなりたいか」と言われた。(ヨハネによる福音書5章5‐6節)
エルサレム神殿のそばのベトサダの池には、多くの病人がいました。池の水が動く時、最初に池に入った人が癒されると信じられていたからです。
イエスは、長い間癒されないでいる人に心を留められ「良くなりたいか」と問われました。しかし彼は「はい。良くなりたいです。」と答えないで「水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいない。」(同7節)と答えました。彼は、自分が誰にも理解されず、また助けてもらえない哀れな者です、と訴えたのです。
私たちは、長い間、恐れ、怒り、病苦、貧困などの中で生活していると、自分を哀れに思い、被害者意識のとりことなってしまい肯定的に生きるエネルギーを失ってしまいます。
イエスが「良くなりたいか」と尋ねられたのは、彼自身が自分の人生に対して、「はい。良くなりたいです。」という主体性を取り戻す必要があったからです。自分の人生に対して「良くなりたい」との願いを持たない限り、何も変わりません。「私が行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」(同7節)と嘆き続けるだけです。
イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命じられました。(同8節)イエスが彼に求めたのは、真正面から自分の人生に向き合い、神の癒しを受け取り、自分の足で立ち、歩き始めることです。「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。命の泉はこれからわく。」(箴言4章23節)