「我ここにあり、我を遣わし給え」
2016.1.3. 礼 拝
イザヤ 6:1-10 「我ここにあり、我を遣わし給え」
罪の自覚と悔い改め〈1-5〉
▽神の臨在の中で、神の栄光と聖さに〈1-4〉、圧倒されたイザヤは、畏れおののいて「災いだ。私はだめだ。滅んでいる」と叫びました〈5〉。
▽イザヤは、同胞が「汚れた唇(心)の者」であり、自分自身もその中の一人であり、自分が罪人であり、霊的に死んだ者であることを自覚したのです。
▽「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」〈ロマ3:23〉のに、彼は神の栄光を見〈5〉、それにより罪を自覚し、罪を悔い改めました。
罪の清めと赦し〈6-7〉
▽〈5〉は、罪の故に人は神と断絶状態にあることを示します。「すると」は重要で、〈6〉は、救いの御業の時、場所、方法の一切の主権が神にあることを示しています。
▽御使いが、祭壇の炭火を取って、イザヤの汚れた唇(最も弱い所)に触れた事により、罪が清められ、赦されたことは、イザヤの想像をはるかに越えたことでした。
▽今、私たちも、私たちの思い、願いをはるかに越えた、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、清められていることを感謝しましょう〈7〉。
召しに応える〈8-10〉
▽〈7〉は、救い(いろいろな信仰)体験が、私たちの知性や感情だけでなく、五感のすべてを感動させ、意志をゆさぶり、行動させ、主の召しへの応答へと導きます。
▽その時、「我々に代わって誰を遣わそうか」という主の問いかけに、イザヤは直ちに「我ここにあり、我を遣わし給え」と応えました〈8〉。私たちも同じように応えましょう。
▽主の召しへの応答は厳しいものです〈9、10〉。イエスも「狼の群に羊を送り込むようだ」と言われました〈マタ10:16〉。だからこそ、内住の御霊と共に、今年一年働きましょう。