「信徒としての成熟」

2013.10.27.         礼  拝

 

エフェソ4:26-27(P357)                       「信徒としての成熟」

 

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」〈26〉

 

 クリスチャンとして成長するために聖書の学びは絶対必要ですが、学ぶことと成長とは別です。なぜなら学ぶだけでは成長できないからです。学んだことが自分のものとなったかのように錯覚するのは、みことばを線ではなく点で捕え、それを守り行うことで安心する。これこそ律法的な信仰です。

 ついカッとなることは誰でもあります。その時、怒るか怒らないかだけを問題とし、怒ったら失敗、怒らなかったら良しとする。それでは「主に委ねている」と言いながら、自分の力で何とかしようと頑張っているだけです。だから、成長につながりません。

誕生は一時(ひととき)、成長は時間がかかります。信仰の成長は点ではなく線です。

 怒ってしまった時、「次は怒らないようにしよう」ではなく、何で怒っているのか、悪に対する聖なる怒りか、自己中心の怒りかを吟味することが大切です。〈26,27〉は「怒らないようにしてください」と祈って待つ受け身のことではなく、御心にかなう自分となるため、御霊に自分を明け渡す積極的な行為です。

自分自身が段々と御霊の支配の中に移されていく成熟こそ大切です。

 

〔お祈り〕

 父なる神さま、御名を賛美します。感情に支配されやすい弱い者です。だから、みことばをたくさん心に蓄えて、内住の御霊の助けによって、感情をコントロールできる成熟した者と整えてください。イエスさまの御名によってお祈りします。 アーメン