「どのように見るか」
2017.1.15. 礼 拝
ヨハネ 20:1-18(p209) 「どのように見るか」
石が取りのけてあるのを見た 〈1〉(ブレポー)
▽主イエスが復活された日の朝早く、マグダラのマリアたちは、イエスのご遺体に香油を塗るために墓へ行きました。しかし、一つの問題がありました。それは、
▽「だれが墓の入口の石を動かしてくれるか」〈マル16:3〉です。しかし、墓に着いて彼女たちは「石が取りのけてあるのを見た(目の前のでき事を見た)」のです。
二人の天使が見えた 〈12〉(セウロー)
▽マリアは見た事を弟子たちに報告し、再び墓に戻り、泣きながら、墓をのぞいて見ると、そこに「白い衣を着た二人の天使が見えた」のです。
▽この「見る」は、観察するという意味で、よく見、よく考え、頭で理解するようになることです。マリアはただ「見た」ことから〈1〉、今はもう墓の中にイエスはおられないという現実を理解することができたという意味の「見る」です。
わたしは主を見ました 〈18〉(オラオー)
▽この「見る」は、目の前のでき事をただと見、次に頭で理解し、さらに心(信仰)の目で、その事実を確認し、信じたことを示す「見る」です。
▽聖日(主の日)に礼拝をささげる目的は、日々のすべての活動をやめて立ち止まり、自分の全存在をもって、主の十字架を仰ぎ、霊の目をもって主を見ることです。
▽復活された主は、マリアに「なぜ泣いているのか」と尋ねられました〈15〉。イエスは、マリアが心の目をイエスに向け、主イエスご自身を求めるよう促されたのです。
▽そして、イエスは「マリア」と彼女の名を呼び〈16〉、マリアにさらに深くイエスとの関係を深め、みことばに従い、弟子たちにこの事実を語らせました〈17、18〉。
マリアは「私は心(信仰)の目で復活の主を見、信じます」と告白したのです。