「どこを見ている」
2017.2.5. 礼 拝
ルカ 13:10-13(P134) 「どこを見ている」
腰の曲がったままの女 〈11〉
▽イエスがある会堂でみことばを語っておられた時、そこに18年間も病の霊に取りつかれて、腰が曲がり伸ばすことができない女がいました〈10、11〉。
▽この女が18年間見ていたものは何だったのでしょうか。見えるのは足元だけ、心の目は自分の惨めな姿を見、希望も将来もなく、ただ死に向かいトボトボ歩くだけ。
▽私たちもかつてはこの女のように、罪の奴隷として、死の恐れと向き合った生活をし、サタンに支配され、足元を見、欲望のまま(自己中心)に生きていました。〈エフェ2:1-3〉
イエスの方から 〈12-13〉
▽この女は、こんな情況の中で、目の前におれらるイエスを見ることができず、自分の方からイエスを求めてはいません。イエスの方から声をかけ、手を置いて癒されました〈13〉。
▽この世の人々は、日々の生活に追われ、真の神の救いを求めようともしません。そして、「私の元へ来なさい」というイエスの招きを聞こうともしないのです。
▽だから、父なる神は御子イエスを私たちの住むこの世に遣わしてくださり、主に背を向けている私たちに手を置いてくださり、救ってくださいました。〈16〉
この女が見たものは? 〈13〉
▽それは安息日のことですが、神が「先行の恵み」によって、御子を死者から復活させる主導権をとられ、聖日(日曜日)の真の安息を与えてくださいました。
▽イエスに癒されたこの女は、イエスを見上げて神を賛美し、礼拝しました。そして、群衆も彼女を見ました。私たちも主にある仲間を互いに見、共に主を礼拝しましょう。
神が人を二本足で経って歩けるように創造されたのは。足元ではなく、天を仰ぎ見て主を礼拝し、主を賛美する生活を過ごすためなのです。