月刊・シロアム

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)

 

ユダヤ人の議員であるニコデモが、ある夜ひそかにイエスのもとに来て、イエス様はすばらしい先生だとほめ、話の本題に入る前、イエス様は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。ニコデモは「大人がどうしてもう一度母の胎内に入って生まれることができますか」とたずねます。イエス様は「肉から生まれるものは肉である。霊から生まれるものは霊である」と答えます。

これは、生まれたままの人の肉体はやがて死ぬが、神の霊(聖霊)によって新しく生まれ変った人は生きるものとなるということです。(同1~6)

さらにイエス様は、やがてご自分が十字架に上げられ、ご自分の命の代価によって、すべての人の罪の報酬である死から贖ってくださること、そしてその事実を信じる人は永遠の命を得ることができることを約束してくださっています。(同13~15)

聖書は冒頭の16節のみことばに続いて「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)と記されています。それは「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され」たのです(ローマ5・8)。

年の始め、自分は新たに生まれ変っているか、永遠の命を与えられているか、自省してみてはいかがでしょうか。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。(マタイによる福音書2章2節)

 

救い主イエス様のお生まれを心からお喜び申し上げます。

イエス様がユダヤの国ベツレヘムに人となられてお生まれになられた時、はるか東の国から遠路はるばる不思議な星に導かれて、イエス様にお目にかかるため占星術の学者たちがやって来ました。その目的はイエス様を礼拝するためです。

彼らは幼子イエスの前にひれ伏して礼拝しました。地位も名誉も学識もある大の大人が、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子をひざまずいて礼拝するなど、常識では考えられないことです。さらに彼らは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです(同11)。

これらのささげ物については古くからいろいろな意味に解釈されていますが、これら高価なものは、学者たちの仕事に使う道具です。それをささげたということは、今までの自分の生活のあり方に袂別し、自分にとってかけがえのない物をささげること、つまり、イエス様を自分の王として迎え入れ、献身し、服従する新しい人生を始めることを示しているのです。

私たちもこの学者たちのように、イエス様の前にひれ伏し、宝の箱を開けて、私たちの大切にしているものをささげて礼拝することによってみ救いに与ることができるのです。

さあ、「今日ダビデの町で」お生まれになられた救い主イエス様を、私たちも礼拝するため急ぎましょう。

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。(ルカによる福音書7章13-14節)

 

その母親はやもめ

喜びに満ちてイエス様に従う群と嘆き悲しむ葬列の出合い、人生の縮図です。この母親は夫に先立たれ、頼りにしていた一人息子をも亡くしたのです。そのころ、やもめが生きてゆくのはとても大変なことでした。彼女はすべてを失い、自分も死にたいくらい絶望のどん底にいました。その時、イエス様が声をかけられたのです。

もう泣かなくともよい

イエス様は彼女を見て、憐れに思い(単なる同情ではなく、彼女の悲痛を共感し、断腸の思いをもって)、「もう泣かなくともよい」と言われました。この言葉は、イエス様が彼女に対して無限の愛をもって、彼女の苦悩の原因を解決してあげるという宣言です。それは、汚れるから触れてはいけないという律法を犯して、あえて棺に触れられたことをみても分かります。

若者よ、あなたに言う

イエス様は、棺に向かって「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命令し、一人息子を生き返らせて、母親にお返しになりました(同15節)。

イエス様は、神の御子としてのご栄光を現し、やもめの母親に言われたことを実現してくださったのです。

それを見た群衆は「神はその民を心にかけて(顧みて)くださった」と言って神を賛美しました(同16節)。この喜びを私たちも体験できます。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22章31、32節)

 

主イエス様は、ペトロ(イエス様がつけた名)に、まだペトロ(岩)のような不動の信仰がないのを見て、もとの名で呼ばれ、始めのように話されました。するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えました。しかし、イエス様は「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました(同33、34節)。

イエス様が十字架にかかるために捕えられた時、ペトロはイエス様の言われたとおり、主を裏切ってしまいました(ルカ22・54~62)。

私たちは、こんなペトロを責めることはできません。なぜなら、私たちもペトロと同じように弱い人間だからです。決心しても揺ぎやすく、初心を貫くことが難しい者です。

しかし、なんと感謝なことでしょうか。シモンのために信仰が無くならないように祈られたイエス様は、同じように信仰の弱い私たち一人ひとりのために、今もとりなしの祈りをしてくださっているのです(詩121・4参照)。

そして、イエス様の言われたとおり、ペンテコステの日に聖霊の力に満たされたシモンは、ペトロと変えられ、教会のリーダーとして主に仕え、最期はローマの地で殉教しました。(Ⅰペトロの手紙4・19)をお読みください。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)

 

立春から数えて二百十日、二百二十日は台風のシーズンと言われてきました。一九五四年九月二十六日、洞爺丸(四三三七トン)は、乗客乗員、千二百二十七名を乗せて午後六時半ごろに函館港を出航しましたが、台風によって防波堤の外側で座礁し、転覆し、死者千九十二名、行方不明八十三名という惨事となりました。

この時、二人の宣教師ディーン・リーパーとアルフレッド・ストーンが他の乗客のために自分のライフ・ジャケットを与えて自分たちは犠牲になりました。この二人の宣教師の「自分の生命を捨てる愛」を描写した小説がよく知られている三浦綾子氏の作品である「氷点」です。

この二人の宣教師は、初めのイエス様のみことばを身をもって実践したのでしょう。

イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)と言われ、私たち一人ひとりの背信の罪を贖い赦すために十字架にかかり命を捨ててくださり、神の力によって死からよみがえられて、私たちに新しい命を備えてくださっています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」。そして「口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Ⅰヨハネ3・16、18)ではありませんか。

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