月刊・シロアム

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。(コロサイ信徒への手紙114-15節)

 

まず、神の御子イエス様は「見えない神の姿」です。それはイエス様が見ることのできない神様を、私たちが見ることができるように、私たちと同じ人間となってこの地上で生活してくださったということです。だからイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われました(ヨハ149)。また「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハ114)とあります。

次に、イエス様は万物の造り主です。イエス様は「すべてのものが造られる前」からおられ、「万物は御子において造られたからです」(同16節)。

神は人を創造なさる時、「わたし」ではなく「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたことに示されています(創126)。

そして、イエス様は、私たち一人ひとりの罪を贖い、赦すために十字架に釘打たれ、尊い神の小羊として命を捨ててくださったのです。それは「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」からです(ヘブ922)。

私たちは「以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(コロ121)。しかし、神は御子の「十字架の血によって平和を打ち立て、御子によって、御自分と和解させられました」(同120)。

イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。(マルコによる福音書19-10節)

 

洗礼者ヨハネが、罪の悔い改めを宣べ伝え、ヨルダン川で洗礼を授けていた時、イエス様が来られて洗礼を受けられました。イエス様は罪のない神の御子ですから、罪を悔い改める必要はないのにです。それは人となられたイエス様が「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」からです(ヘブ217)。

イエス様が水の中から上がられるとすぐ、「天が裂けた」と記されています。罪のとりことなっている私たちは、心の目が閉ざされて、真の神様を見ることができません。だから、イエス様を信じる者の心の目が開かれ、はっきりと愛の神様を見ることができるようにしてくださるのです。

イエス様が私たち一人ひとりの身代わりとなって十字架に命をささげてくださり、「成し遂げられた」と言い、息を引き取られた時(ヨハ1930)、神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マル1538)。そうして

「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉(十字架)を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(ヘブ1020)。それで「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(同1019)。

天は開かれています。信仰の目を上げて救い主イエス様を仰ぎ見ましょう。

最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(Ⅰコリント153-5節)

 

イースターおめでとうございます。

イースター(復活祭)とは、イエス様が私たちの罪を贖うために十字架に上げられ、死んで葬られ、死に勝利されて墓からよみがえられた歴史上の事実を喜びお祝いする日です。

とは言え、死者が復活するなんてことは、私たちには信じられないことです。三年余り、イエス様といつも行動を共にし、みことばを聞き、みわざを見ていた弟子たちも、復活されたイエス様に会うまでは、信じられなかったのです。しかし……

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(同1314節)とあります。そのとおりです。

イエス様が復活された早朝、ご遺体に香油を塗るため墓を訪れた女性たちは墓が空っぽであることを目撃し、後から来た弟子たちも、墓が空であることを確認しています。しかも……

復活されたイエス様は、マグダラのマリアに、失望して旅をする二人の弟子たちに、逮捕されるのを恐れて部屋に隠れていた弟子たちに現れて、傷ついたみ手をお見せになりました。

実際、キリストは死者の初穂として復活されたのです。(同1520節)。

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。(ルカによる福音書737-38節)

 

町中のだれもが知っている罪深い女(遊女のこと?)、本来ならこのような食事の席に入ることは許されないのに、彼女はイエスの元に来ました。

彼女はイエスの前に自分の罪の深さを自覚するとともに、イエスの数々のみわざを見、また、みことば聞いてイエスの愛を知ったのです。彼女の涙と彼女のしたことは、そのことをよく表しています。

彼女は涙でイエスの足をぬらし、女の命と言われる髪の毛でそれをぬぐい、接吻し、香油を塗りました。彼女は心の底から自分の罪を悔い改めるとともに、自分のできる限りのことをもってイエスに対する愛を示したのです。足への口づけは、奴隷のすることであり、主人に対する絶対服従を示す行為です。

この時、イエス様はこの罪深い女に「あなたの罪は赦された」と、神として彼女の罪が赦されたことを宣言なさいました。そしてさらに「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われ、彼女を罪の生活から解放し、本当の自由の身とされました。

イエス様が語られた「人の子(イエス様)は、失われたもの(いるべき所にいない人)を捜して救うために来たのである」(ルカ1910)が、成就したのです。

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。(マルコによる福音書10章17節)

 

ある人とは青年であり(マタイ19章)、ユダヤの議員(ルカ18章)です。つまり、彼は身分も立場もあり裕福な人です。しかし、彼の心は満たされていなかったのです。だから、彼はイエス様の元へ来ました。

「走り寄って」、「ひざまずいて」、「善い先生」とは、彼がイエス様を信じ尊敬していたことを表しています。

彼は死後のことが心配でした。だから「永遠の命を受け継ぐには、何をすれば良いでしょうか」と尋ねます。するとイエス様は会話のかみ合わない返事、モーセの十戒の五戒から十戒を行うようにと言われ、さらに、彼の財産をお金に換えて貧しい人々に施すようにと言われました。

それに対し彼は、「律法はみな、子どもの時から守っています」と答えました。

イエス様は決して彼に貧しい人々のために自分を犠牲にして無一物になれと言われたのではありません。人の心を見られる主は、自己義を主張する彼の傲慢を見抜かれて、律法の心である「愛」を実行するようにと戒められたのです。しかし、彼は「悲しみながら立ち去った」のです。彼は主イエス様に求めた「永遠の命」を得ることができませんでした(10章17~22参照)。

永遠の命とは、人間の努力や修業によって得られるものではありません。「唯一のまことの神とその御子であるイエス・キリストを信じる」ことで与えられるのです(ヨハネ17・3参照)。

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