月刊・シロアム

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコによる福音書 8章33節)

 

イエス様がユダヤの宗教家や指導者たちに、「排斥されて殺され、三日の後に復活する」と弟子たちにはっきりと語られた時、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始め」ました。するとイエス様はペトロを叱り、初めに引用したみことばを語られたのです。

なぜでしょうか。唯一まことの神様に似せて造られたその神様の愛に背き神様と同じようになろうとした私たちを救わなければならない義務など神様にはどこにもないのです。

しかし、神様はそんな私たちをも愛し、その背信の罪を贖い救うために、御子イエス様を人としてこの世に遣わしてくださいました。つまり、イエス様が十字架で罪の代価として命を捨ててくださることが父なる神様の御心であるということです。

だからペトロが主イエス様のことを心配して、ご自分の十字架の死を予告されたことをとめようとしたことを拒まれたのです。

神様は、罪の代価を払うことのできない無力な私たちに代わって、その代価を払ってくださいました。それが十字架です。十字架こそが神様の愛と犠牲のシンボルなのです。死ぬことのない神の御子が十字架に死なれることによって、私たち一人ひとりを神様のものとしてくださいました。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ロマ5・8)

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4章13-14節)

 

イエス様は、ガリラヤへ行かれる途中、サマリアのシカルにあるヤコブの井戸のそばに座り休まれました。

そこへサマリアの女が水をくみに来たので、イエス様は「水を飲ませてください」と言われました。すると女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と問いました。なぜなら「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」(9節=列王記下17章24-41節参照)。

イエス様は水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と話しかけることによって、彼女の心を捉え、一時は喉の渇きをうるおしてもまた渇く水ではなく、いつまでも決して渇くことのない永遠の命に至る水について説明なさいました。女がその水を求めた(15節)ので、イエス様は女の生活の罪を悔い改めに導かれました(16-26節参照)。

イエス様は、仮庵の祭の終りの日に立ち上って大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37-38節)と約束されています。この渇くことのない命の水とは「聖霊」のことです(7・39)。

ぜひ、あなたもイエス様を救い主と信じて、聖霊に満たされ、喜びに満ちた毎日を過ごしてください。

「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ書53章6節)

 

精神科医であり、大学の教授である香山リカさんは「最近の若い人たちは、非常に生きるのがしんどい、生きづらい、生きるのが困難だという人たちが多数いる」と言っておられる。

真の神を知らず、また知ろうともしない人々は、自分がどこからきて、どこへ行くかも知らないまま、一度きりの人生を「それぞれの方角に向かって」過ごし、そして死んでいく。

聖書は私たち人間を羊にたとえて教えています。それは、羊の習性と私たちのそれに共通点があるからでしょう。ヨハネによる福音書10章でイエス様も私たち人間を羊に、ご自身を「良い羊飼い」にたとえて、真理を語っておられます(1~18節参照)。

12節では、この世の指導者たちは、私たち「羊のことを心にかけていない」ので、羊が迷って、死への道へと歩んでいても助けてはくれないと語っておられる。確かに、真の神を信じない人の人生は「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」(箴言14・12、16・25)とあるとおりです。

イエス様は、ここで「良い羊飼い」として三回も「わたしは羊のために命を捨てる」と宣言されています(11、15、18)。私たちが真の神に対し背信の罪を犯し、正しい道からそれて死に至る道を歩んでいるので、その罪を贖い、神の国に入ることができるように、一人ひとりの身代わりとなって、十字架に命を捨ててくださったのです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイによる福音書5章45節)

 

梅雨の時季に雨が降り続くとうっとうしいと文句を言います。また、運動会などには晴れることを願い、日照りが続くと一雨ほしいと願う、人間とは自分勝手なものですね。

初めの聖句は、神様が信仰のある人にも信仰のない人にも分け隔てなくすべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方であることを教えています。

私たちは、何か良いことをすれば良いものをもって報いてくださり、悪いことをすれば、悪いものやばちを与えられると考えます。

道端で物乞いをしている盲人を見た弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、本人か、両親が罪を犯したからですか」との問いに、イエス様は「本人や両親が罪を犯したかたではない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられて、この盲人の目を見えるようにされた(ヨハネによる福音書9章参照)。

地に降り注ぐ雨が一人ひとりに必要な恵みの雨であるように、イエス様は私たち一人ひとりに愛のまなざしを向け、恵みのみわざを行ってくださるお方であることを忘れないでください。

私たちは、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことはできません。イエス様は「あなたがた天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。だから明日のことまで思い悩むな」と励ましてくださっています。(マタイによる福音書6章参照)数えてみよ、主の恵み。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネによる福音書19章26-27節)

 

イエス様がつけられた十字架のもとに、母マリアとその姉妹(ゼベダイの妻サロメ=マルコ15・40、弟子のヤコブとヨハネの母=マタイ27・56)がいました。マリアがイエス様を初子として主にささげるためエルサレムの神殿に行った時、聖霊に導かれて近づいて来たシメオンがイエス様を抱き、神様をほめたたえました。そして、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)と予告したとおり、十字架につけられたイエス様を見上げるマリアの心は、言葉に言い表わせない悲痛で引き裂かれていたことでしょう。

イエス様は心身ともに耐えられないような十字架刑の激痛の中で、ご自分が父なる神のみもとに帰った後の母の生活をご心配なさって「愛する弟子」のヨハネに託されたのです。ヨハネ(ヨハネによる福音書の筆者)はイエス様の言われたことに忠実に従い、マリアを引き取り、自分の母として仕えました。

愛とは惜しみなく与えることです。マリアは母として愛するイエス様を父なる神様にささげました。イエス様はその愛のゆえにすべての人に命を与えてくださいました。ヨハネはそれに答えて生涯をイエス様にささげました。

私たちはイエス様に何をささげることができるでしょうか。

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