月刊・シロアム

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。(マタイによる福音書 9章28節)

 

通り過ぎようとするイエス様に対し二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらついて来ました(同27節)。

「ダビデの子よ」とは、父なる神様が、ダビデ王の子孫からメシヤ(油注がれた者=救い主)が生まれると約束されていたことです。二人の盲人がそのように叫んだということは、彼らがイエス様を救い主と信じていたということです。すると――

イエス様は二人の信仰を試すかのように「わたしにできると信じるか」と尋ねられました。

私たちも毎日の生活の中で、いろいろな問題や悩みに試みられる時、イエス様は、あなたにも「わたしにあなたの問題の解決ができると信じるか」とお尋ねになります。その時、あなたは二人の盲人のように「はい、主よ、できると信じます」と答えましょう。

そして、イエス様が二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになりました(同29-30節)。

二人の盲人は「私たちの目が見えるようにしてください」ではなく、「私たちを憐れんでください」と、謙遜にイエス様の憐れみにすがったのです。

あなたもこの盲人のように、イエス様の前にへりくだり、イエス様の愛と憐みによりすがって叫び求めようではありませんか。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9・22)。

貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。(箴言 30章8-9節)

 

実りの秋、収穫の秋、食欲の秋です。初めの聖句はアグルの祈りの言葉です。彼は「貧しくもなく、また富もせず、ただなくてはならぬ食物で私を養ってください」と祈っています(口語訳)

その理由は、飽き足りたならすべての物の与え主である神様の恵みを忘れて神様を無視して生活するようになり、逆に貧しければ、「背に腹はかえられなく」なって、盗みを働き、神様の御名を汚す者となるからです。

イエス様は「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタ6・26)、また「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタ6・8)とも言っておられます。

イエス様が弟子たちに教えられた祈りの基本である「主の祈り」の中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と教えています。「今日も」で、明日のことは主に委ねて、今日一日を生活するのです。イスラエルの民が40年間、荒野をさ迷った時、神は毎日、その日その日のパン(マナ=これは何?)を与えてくださいました。

「明日のことまで思い悩むな」(マタ6・34)そうです。一日一日を主に感謝しつつ前進しましょう。

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコによる福音書 8章33節)

 

イエス様がユダヤの宗教家や指導者たちに、「排斥されて殺され、三日の後に復活する」と弟子たちにはっきりと語られた時、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始め」ました。するとイエス様はペトロを叱り、初めに引用したみことばを語られたのです。

なぜでしょうか。唯一まことの神様に似せて造られたその神様の愛に背き神様と同じようになろうとした私たちを救わなければならない義務など神様にはどこにもないのです。

しかし、神様はそんな私たちをも愛し、その背信の罪を贖い救うために、御子イエス様を人としてこの世に遣わしてくださいました。つまり、イエス様が十字架で罪の代価として命を捨ててくださることが父なる神様の御心であるということです。

だからペトロが主イエス様のことを心配して、ご自分の十字架の死を予告されたことをとめようとしたことを拒まれたのです。

神様は、罪の代価を払うことのできない無力な私たちに代わって、その代価を払ってくださいました。それが十字架です。十字架こそが神様の愛と犠牲のシンボルなのです。死ぬことのない神の御子が十字架に死なれることによって、私たち一人ひとりを神様のものとしてくださいました。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ロマ5・8)

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4章13-14節)

 

イエス様は、ガリラヤへ行かれる途中、サマリアのシカルにあるヤコブの井戸のそばに座り休まれました。

そこへサマリアの女が水をくみに来たので、イエス様は「水を飲ませてください」と言われました。すると女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と問いました。なぜなら「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」(9節=列王記下17章24-41節参照)。

イエス様は水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と話しかけることによって、彼女の心を捉え、一時は喉の渇きをうるおしてもまた渇く水ではなく、いつまでも決して渇くことのない永遠の命に至る水について説明なさいました。女がその水を求めた(15節)ので、イエス様は女の生活の罪を悔い改めに導かれました(16-26節参照)。

イエス様は、仮庵の祭の終りの日に立ち上って大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37-38節)と約束されています。この渇くことのない命の水とは「聖霊」のことです(7・39)。

ぜひ、あなたもイエス様を救い主と信じて、聖霊に満たされ、喜びに満ちた毎日を過ごしてください。

「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ書53章6節)

 

精神科医であり、大学の教授である香山リカさんは「最近の若い人たちは、非常に生きるのがしんどい、生きづらい、生きるのが困難だという人たちが多数いる」と言っておられる。

真の神を知らず、また知ろうともしない人々は、自分がどこからきて、どこへ行くかも知らないまま、一度きりの人生を「それぞれの方角に向かって」過ごし、そして死んでいく。

聖書は私たち人間を羊にたとえて教えています。それは、羊の習性と私たちのそれに共通点があるからでしょう。ヨハネによる福音書10章でイエス様も私たち人間を羊に、ご自身を「良い羊飼い」にたとえて、真理を語っておられます(1~18節参照)。

12節では、この世の指導者たちは、私たち「羊のことを心にかけていない」ので、羊が迷って、死への道へと歩んでいても助けてはくれないと語っておられる。確かに、真の神を信じない人の人生は「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」(箴言14・12、16・25)とあるとおりです。

イエス様は、ここで「良い羊飼い」として三回も「わたしは羊のために命を捨てる」と宣言されています(11、15、18)。私たちが真の神に対し背信の罪を犯し、正しい道からそれて死に至る道を歩んでいるので、その罪を贖い、神の国に入ることができるように、一人ひとりの身代わりとなって、十字架に命を捨ててくださったのです。

月別のメッセージ

カレンダー

2018年11月
« 10月    
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  

facebook


わたしたちの教会は、

聖書信仰に立つ
正統的キリスト教会です。

門真キリスト教会
牧 師:前川 圭司
伝道師:濱崎 恵太
牧 師:濱崎かおり

日本アッセンブリーズ・
オブ・ゴッド教団

関西教区

http://ag-kansai.com 

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団・関西教区

access counter

  • 58691総閲覧数:
  • 25今日の閲覧数:
  • 55昨日の閲覧数: