月刊・シロアム

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25-26節)

 

イースターおめでとうございます。

イエス様の復活は、旧約聖書でくり返し預言されており、イエス様ご自身もたびたび予告されていたことです。イエス様の復活はいわゆる蘇生(そせい=生きかえること)とは違います。

死んだ人が復活することなんてことは、人間の常識では考えられないことですし、ましてや信じることなどできないことです。イエス様と三年以上寝食を共にした12弟子でさえも、「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリア(マグダラの)がそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16・11)とあるとおり信じられなかったのです。しかし、イエス様のご遺体を葬った墓はからとなり、その後、復活されたイエス様は再三弟子たちの前に姿を現わされました。

「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリ15・14-15、17、20)

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。(マルコによる福音書10章51節)

 

イエス様一行がエリコの町に来られた時、道端に座って物乞いをしていた盲人バルティマイは、イエス様が通られると聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。人々が叱って黙らせようとしましたが、彼はなお必死で叫び続けます。

イエス様は立ち止まり、盲人を呼び寄せて彼に尋ねられたのが「何をしてほしいのか」です(同章46-54節)。

だれが見ても、この盲人が必死で求めているのは目が見えるようになることでしょう。それなのに、すべてをご存知であるはずの神の御子イエス様がなぜ、「何をしてほしいのか」と尋ねられたのでしょうか。

それは、彼の心の内にあるイエス様に対する信仰を引き出し、彼自身の信仰の言葉として聞こうとなさったからです。そして、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すると盲人は、すぐ見えるようになり、イエス様に従いました(同52節)。

聖書に「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)とあります。

あなたも、心の内にあるイエス様に対する信仰をはっきりと口で告白し、バルティマイのように「上着を脱ぎ捨て、躍り上がり」イエス様に近づきましょう。イエス様はそれを待っていてくださいます。

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ6・8)

 

これは、イザヤが神の呼びかけを聞いて、預言者として献身を決意し、告白した時の状況です。

神はイザヤ個人に向けて呼びかけてはいません。神はイザヤを強制的に召されたのではありません。イザヤは誰とはなしに語りかけられた神の声に自分の方から、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と応答したのです。

イエスは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22・14)と言われましたが、神の御声を聞き分けることができるかどうかは、私たちの心の状態に関わっています。私たちと神との関係がイエス・キリストによって正しく結びついていることが大切です。だからイエスは「耳のある者は聞きなさい」とくり返し警告されたのです(マタイ11・15他)。

エリヤは失望落胆して逃亡し、神の山ホレブにたどり着き、洞穴に身を潜めていた時、非常に激しい風や地震や火のような出来事ではなく、「静かにささやく」神の声を聞くことによって再び預言者として立ち上ることができました(列王記上19章)。

私たちも、祈る時、聖書を読む時、メッセージを聞く時、心の耳を開き、心を集中して神の声を聴きましょう。イザヤを「行け、この民に言うがよい」と押し出されたように、私たちをも遣わしてくださいます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と告白しましょう。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)

 

ユダヤ人の議員であるニコデモが、ある夜ひそかにイエスのもとに来て、イエス様はすばらしい先生だとほめ、話の本題に入る前、イエス様は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。ニコデモは「大人がどうしてもう一度母の胎内に入って生まれることができますか」とたずねます。イエス様は「肉から生まれるものは肉である。霊から生まれるものは霊である」と答えます。

これは、生まれたままの人の肉体はやがて死ぬが、神の霊(聖霊)によって新しく生まれ変った人は生きるものとなるということです。(同1~6)

さらにイエス様は、やがてご自分が十字架に上げられ、ご自分の命の代価によって、すべての人の罪の報酬である死から贖ってくださること、そしてその事実を信じる人は永遠の命を得ることができることを約束してくださっています。(同13~15)

聖書は冒頭の16節のみことばに続いて「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)と記されています。それは「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され」たのです(ローマ5・8)。

年の始め、自分は新たに生まれ変っているか、永遠の命を与えられているか、自省してみてはいかがでしょうか。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。(マタイによる福音書2章2節)

 

救い主イエス様のお生まれを心からお喜び申し上げます。

イエス様がユダヤの国ベツレヘムに人となられてお生まれになられた時、はるか東の国から遠路はるばる不思議な星に導かれて、イエス様にお目にかかるため占星術の学者たちがやって来ました。その目的はイエス様を礼拝するためです。

彼らは幼子イエスの前にひれ伏して礼拝しました。地位も名誉も学識もある大の大人が、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子をひざまずいて礼拝するなど、常識では考えられないことです。さらに彼らは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです(同11)。

これらのささげ物については古くからいろいろな意味に解釈されていますが、これら高価なものは、学者たちの仕事に使う道具です。それをささげたということは、今までの自分の生活のあり方に袂別し、自分にとってかけがえのない物をささげること、つまり、イエス様を自分の王として迎え入れ、献身し、服従する新しい人生を始めることを示しているのです。

私たちもこの学者たちのように、イエス様の前にひれ伏し、宝の箱を開けて、私たちの大切にしているものをささげて礼拝することによってみ救いに与ることができるのです。

さあ、「今日ダビデの町で」お生まれになられた救い主イエス様を、私たちも礼拝するため急ぎましょう。

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