月刊・シロアム

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。(ルカによる福音書7章13-14節)

 

その母親はやもめ

喜びに満ちてイエス様に従う群と嘆き悲しむ葬列の出合い、人生の縮図です。この母親は夫に先立たれ、頼りにしていた一人息子をも亡くしたのです。そのころ、やもめが生きてゆくのはとても大変なことでした。彼女はすべてを失い、自分も死にたいくらい絶望のどん底にいました。その時、イエス様が声をかけられたのです。

もう泣かなくともよい

イエス様は彼女を見て、憐れに思い(単なる同情ではなく、彼女の悲痛を共感し、断腸の思いをもって)、「もう泣かなくともよい」と言われました。この言葉は、イエス様が彼女に対して無限の愛をもって、彼女の苦悩の原因を解決してあげるという宣言です。それは、汚れるから触れてはいけないという律法を犯して、あえて棺に触れられたことをみても分かります。

若者よ、あなたに言う

イエス様は、棺に向かって「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命令し、一人息子を生き返らせて、母親にお返しになりました(同15節)。

イエス様は、神の御子としてのご栄光を現し、やもめの母親に言われたことを実現してくださったのです。

それを見た群衆は「神はその民を心にかけて(顧みて)くださった」と言って神を賛美しました(同16節)。この喜びを私たちも体験できます。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22章31、32節)

 

主イエス様は、ペトロ(イエス様がつけた名)に、まだペトロ(岩)のような不動の信仰がないのを見て、もとの名で呼ばれ、始めのように話されました。するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えました。しかし、イエス様は「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました(同33、34節)。

イエス様が十字架にかかるために捕えられた時、ペトロはイエス様の言われたとおり、主を裏切ってしまいました(ルカ22・54~62)。

私たちは、こんなペトロを責めることはできません。なぜなら、私たちもペトロと同じように弱い人間だからです。決心しても揺ぎやすく、初心を貫くことが難しい者です。

しかし、なんと感謝なことでしょうか。シモンのために信仰が無くならないように祈られたイエス様は、同じように信仰の弱い私たち一人ひとりのために、今もとりなしの祈りをしてくださっているのです(詩121・4参照)。

そして、イエス様の言われたとおり、ペンテコステの日に聖霊の力に満たされたシモンは、ペトロと変えられ、教会のリーダーとして主に仕え、最期はローマの地で殉教しました。(Ⅰペトロの手紙4・19)をお読みください。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)

 

立春から数えて二百十日、二百二十日は台風のシーズンと言われてきました。一九五四年九月二十六日、洞爺丸(四三三七トン)は、乗客乗員、千二百二十七名を乗せて午後六時半ごろに函館港を出航しましたが、台風によって防波堤の外側で座礁し、転覆し、死者千九十二名、行方不明八十三名という惨事となりました。

この時、二人の宣教師ディーン・リーパーとアルフレッド・ストーンが他の乗客のために自分のライフ・ジャケットを与えて自分たちは犠牲になりました。この二人の宣教師の「自分の生命を捨てる愛」を描写した小説がよく知られている三浦綾子氏の作品である「氷点」です。

この二人の宣教師は、初めのイエス様のみことばを身をもって実践したのでしょう。

イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)と言われ、私たち一人ひとりの背信の罪を贖い赦すために十字架にかかり命を捨ててくださり、神の力によって死からよみがえられて、私たちに新しい命を備えてくださっています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」。そして「口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Ⅰヨハネ3・16、18)ではありませんか。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章19~20節)

 

私たちは父と子と聖霊という同じ身分(立場)にあられる三者を一人の神として信じています。「父と子と聖霊の名によって」の名は複数ではなく単数で記されていることが、そのことを確かにしています。

父とは万物の創造主なる神です。子であるイエス様は「わたしと父とは一つである」(ヨハ10・30)。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ14・9)と言われました。

イエス様が人として歩まれた中で、語られた言葉、行われた御業そのものが父なる神を証しなさっているのです。

イエス様は、父なる神の愛を証明するため、背信の罪に死んでいる私たちすべての人、一人ひとりに命を与えるために、十字架に命を捨ててくださいました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)とあるとおりです。

そして、その事実を私たちに信じるように導き、認めさせてくださるのが聖霊なる神の御業なのです。イエス様は「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」と約束されました(ヨハ15・26)。だから「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12・3)。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1章27節)

 

天地万物の創造主である神様は、すべてのものをお造りになり、人が生きるために必要な環境を整えられて最後に人をご自身にかたどって創造されました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(同2・7)。

霊であられる神様は、他の動物とは違い人にだけご自身の霊を吹き入れられました。だから人は体と心と霊をもっています。人はこの霊をもって霊なる神様と交わることができるのです。

ところが、私たちの元祖アダムとエバは、神様の御言葉に背き、霊が死に、神様との関係が断絶してしまいました。それですべての人は真の神様ではなく自分たちの神々(偶像)を拝んでいるのです。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、(中略)、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(ローマ1・21ー23)。それは人間だけが信仰心(宗教心)を持っているからです。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています」(ローマ1・32)。

しかし、愛である神様は、失われている神のかたちを私たちがもう一度取り戻す方法を備えてくださっています。それは神の御子がすべての人の身代わりとなる十字架にかかってくださったことを信じ救われることです。

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