月刊・シロアム

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)

 

立春から数えて二百十日、二百二十日は台風のシーズンと言われてきました。一九五四年九月二十六日、洞爺丸(四三三七トン)は、乗客乗員、千二百二十七名を乗せて午後六時半ごろに函館港を出航しましたが、台風によって防波堤の外側で座礁し、転覆し、死者千九十二名、行方不明八十三名という惨事となりました。

この時、二人の宣教師ディーン・リーパーとアルフレッド・ストーンが他の乗客のために自分のライフ・ジャケットを与えて自分たちは犠牲になりました。この二人の宣教師の「自分の生命を捨てる愛」を描写した小説がよく知られている三浦綾子氏の作品である「氷点」です。

この二人の宣教師は、初めのイエス様のみことばを身をもって実践したのでしょう。

イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)と言われ、私たち一人ひとりの背信の罪を贖い赦すために十字架にかかり命を捨ててくださり、神の力によって死からよみがえられて、私たちに新しい命を備えてくださっています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」。そして「口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Ⅰヨハネ3・16、18)ではありませんか。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章19~20節)

 

私たちは父と子と聖霊という同じ身分(立場)にあられる三者を一人の神として信じています。「父と子と聖霊の名によって」の名は複数ではなく単数で記されていることが、そのことを確かにしています。

父とは万物の創造主なる神です。子であるイエス様は「わたしと父とは一つである」(ヨハ10・30)。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ14・9)と言われました。

イエス様が人として歩まれた中で、語られた言葉、行われた御業そのものが父なる神を証しなさっているのです。

イエス様は、父なる神の愛を証明するため、背信の罪に死んでいる私たちすべての人、一人ひとりに命を与えるために、十字架に命を捨ててくださいました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)とあるとおりです。

そして、その事実を私たちに信じるように導き、認めさせてくださるのが聖霊なる神の御業なのです。イエス様は「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」と約束されました(ヨハ15・26)。だから「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12・3)。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1章27節)

 

天地万物の創造主である神様は、すべてのものをお造りになり、人が生きるために必要な環境を整えられて最後に人をご自身にかたどって創造されました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(同2・7)。

霊であられる神様は、他の動物とは違い人にだけご自身の霊を吹き入れられました。だから人は体と心と霊をもっています。人はこの霊をもって霊なる神様と交わることができるのです。

ところが、私たちの元祖アダムとエバは、神様の御言葉に背き、霊が死に、神様との関係が断絶してしまいました。それですべての人は真の神様ではなく自分たちの神々(偶像)を拝んでいるのです。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、(中略)、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(ローマ1・21ー23)。それは人間だけが信仰心(宗教心)を持っているからです。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています」(ローマ1・32)。

しかし、愛である神様は、失われている神のかたちを私たちがもう一度取り戻す方法を備えてくださっています。それは神の御子がすべての人の身代わりとなる十字架にかかってくださったことを信じ救われることです。

「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(マルコによる福音書7章20、21節)

 

イエス様の弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見た宗教家たちが「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」とイエス様を非難しました。彼らは皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかったからです(マルコ7・2ー5参照)

それに答えて、イエス様はいろいろと教えられた中で言われたのが、初めの御言葉です。

私たちは、心の中にある思い、考えが口から言葉となって出、人を裁いたり、傷つけたりするものです。

「舌を制御できる人は一人もいません。(中略)。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」(ヤコブ3・8ー10)とあるとおりです。思わず口に出して、後ではっと気がついても、もう手遅れです。取り戻し、もう一度飲み込むことはできません。そしてそのことで、対人関係が気まずくなったり、人を傷つけたりするのです。正に、舌を制御することの難しさを痛感します。

「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(ヤコブ3・2)とあります。

私たちもダビデのように「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」(詩141・3)と祈りましょう。

「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」(主の祈りより。マタイによる福音書6章12節)

 

私たちにとって人をゆるすことは難しいことです。ペトロがイエス様に、「主よ、私は人を何回ゆるすべきですか。七回までですか」と尋ねた時、イエス様は「七の七十倍までもゆるしなさい」と言われ、次のたとえ話をされました。「王様から一万タラントン(一万日分の給料の額)を借りていた人が、返せないので王様に必死でお願いすると王様は憐れに思って借金をすべてゆるしてあげました。ところが、この人は自分が百デナリオン(百日分の給料の額)を貸している友だちの首を絞め『借金を返せ』と責めたて、『待ってほしい』と切に頼んでいるのに、ゆるさないで、牢に入れました。そのことを知った王様は、『私がお前を憐れんでやったように、お前も友人を憐れむべきだろう』と言い、彼を牢に入れたのです。」このたとえでイエス様は、「私たちが心から人をゆるさないなら、天の父なる神様も私たちを赦してはくださらない」ということです( マタイ18・21~35参照)。

イエス様は、私たちの身代わりとなって罪を赦すために十字架にかかり、最初に祈られたのが、ご自分を十字架につけた人々のため「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というとりなしの祈りでした。

このイエス様の祈りを体験した人、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の救い主と信じ、罪の赦しを真に体験した人が、心から人をゆるすことができる人へと変えられるのです。

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