月刊・シロアム

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。(Ⅱコリント4章7節)

 

新年明けましておめでとうございます

今年の門真キリスト教会の標語は「私の持っているもの」です。そのことについて考えてみましょう。

ペトロとヨハネが、神殿に祈りに行くと、神殿の「美しの門」のそばで、生まれながらに足の不自由な人が物乞いをしていました。すると、ペトロはその人に「私にはお金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、手を取って立ち上がらせ、いやしました(使徒言行録3・1~8参照)。

パウロも、自分の力によってではない偉大な神の力によって与えられた宝を自分の内に持っていると言っています。その宝とは何でしょうか。

それは、もちろんこの世のものではありません。私たち一人ひとり愛してくださっている唯一まことの神に背いて、勝手気ままに生きている罪を認め、悔い改めて、その罪をあがなうために、一人ひとりの身代わりとなって十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に死よりよみがえってくださった、神の御子イエス・キリストを信じる人に与えられているもの、金銭では買うことのできない永遠の命(キリストの命)です。だからこそそれは宝です。

イエス様を救い主と信じるあなたも持っている宝、イエス様をペトロやヨハネのように、まだ持っていない人々にお分かちする一年としましょう。

言(神の御子イエス)は肉となって(人間となって)、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。(ヨハネによる福音書 1章14節)

 

クリスマスをあなたと共に心から喜んでいます。

初めの聖句は、恵みと真理に満ちた父なる神様の栄光を、人の子としてこの世に来てくださったイエス様によって見たと言っています。それは、

「わたしを見た者は、父を見たのだ」(同14・9)とイエス様が言われたことの成就です。なぜなら「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(同5・19~20)とも言われているからです。つまり父なる神様と御子イエス様は一体だということです。

クリスマスの日に、ユダヤの国のベツレヘムの馬小屋でイエス様が産声をあげられたのは、父なる神様の約束(旧約の預言)の成就です。

私たち一人ひとりは、創造主なる神に「かたどって=像(かたち)に・似せて」創造されました。しかし、背信の罪によって神との交わりが断絶し、「神のかたち」を失ってしまい、真の神の代わりに自分に都合の良い神々の偶像を作りそれを拝んでいるのです。

神様は、そんな私たちをも愛し、見捨てることなく、ご自身との関係を回復するために、イエス様を私たちの間(ただ中)に宿らせ(定住させ・寄生させ)てくださったのです。十字架にかかり、私たちの罪を贖うために。

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。(マタイによる福音書 9章28節)

 

通り過ぎようとするイエス様に対し二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらついて来ました(同27節)。

「ダビデの子よ」とは、父なる神様が、ダビデ王の子孫からメシヤ(油注がれた者=救い主)が生まれると約束されていたことです。二人の盲人がそのように叫んだということは、彼らがイエス様を救い主と信じていたということです。すると――

イエス様は二人の信仰を試すかのように「わたしにできると信じるか」と尋ねられました。

私たちも毎日の生活の中で、いろいろな問題や悩みに試みられる時、イエス様は、あなたにも「わたしにあなたの問題の解決ができると信じるか」とお尋ねになります。その時、あなたは二人の盲人のように「はい、主よ、できると信じます」と答えましょう。

そして、イエス様が二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになりました(同29-30節)。

二人の盲人は「私たちの目が見えるようにしてください」ではなく、「私たちを憐れんでください」と、謙遜にイエス様の憐れみにすがったのです。

あなたもこの盲人のように、イエス様の前にへりくだり、イエス様の愛と憐みによりすがって叫び求めようではありませんか。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9・22)。

貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。(箴言 30章8-9節)

 

実りの秋、収穫の秋、食欲の秋です。初めの聖句はアグルの祈りの言葉です。彼は「貧しくもなく、また富もせず、ただなくてはならぬ食物で私を養ってください」と祈っています(口語訳)

その理由は、飽き足りたならすべての物の与え主である神様の恵みを忘れて神様を無視して生活するようになり、逆に貧しければ、「背に腹はかえられなく」なって、盗みを働き、神様の御名を汚す者となるからです。

イエス様は「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタ6・26)、また「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタ6・8)とも言っておられます。

イエス様が弟子たちに教えられた祈りの基本である「主の祈り」の中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と教えています。「今日も」で、明日のことは主に委ねて、今日一日を生活するのです。イスラエルの民が40年間、荒野をさ迷った時、神は毎日、その日その日のパン(マナ=これは何?)を与えてくださいました。

「明日のことまで思い悩むな」(マタ6・34)そうです。一日一日を主に感謝しつつ前進しましょう。

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコによる福音書 8章33節)

 

イエス様がユダヤの宗教家や指導者たちに、「排斥されて殺され、三日の後に復活する」と弟子たちにはっきりと語られた時、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始め」ました。するとイエス様はペトロを叱り、初めに引用したみことばを語られたのです。

なぜでしょうか。唯一まことの神様に似せて造られたその神様の愛に背き神様と同じようになろうとした私たちを救わなければならない義務など神様にはどこにもないのです。

しかし、神様はそんな私たちをも愛し、その背信の罪を贖い救うために、御子イエス様を人としてこの世に遣わしてくださいました。つまり、イエス様が十字架で罪の代価として命を捨ててくださることが父なる神様の御心であるということです。

だからペトロが主イエス様のことを心配して、ご自分の十字架の死を予告されたことをとめようとしたことを拒まれたのです。

神様は、罪の代価を払うことのできない無力な私たちに代わって、その代価を払ってくださいました。それが十字架です。十字架こそが神様の愛と犠牲のシンボルなのです。死ぬことのない神の御子が十字架に死なれることによって、私たち一人ひとりを神様のものとしてくださいました。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ロマ5・8)

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