月刊・シロアム

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイによる福音書5章45節)

 

梅雨の時季に雨が降り続くとうっとうしいと文句を言います。また、運動会などには晴れることを願い、日照りが続くと一雨ほしいと願う、人間とは自分勝手なものですね。

初めの聖句は、神様が信仰のある人にも信仰のない人にも分け隔てなくすべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方であることを教えています。

私たちは、何か良いことをすれば良いものをもって報いてくださり、悪いことをすれば、悪いものやばちを与えられると考えます。

道端で物乞いをしている盲人を見た弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、本人か、両親が罪を犯したからですか」との問いに、イエス様は「本人や両親が罪を犯したかたではない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられて、この盲人の目を見えるようにされた(ヨハネによる福音書9章参照)。

地に降り注ぐ雨が一人ひとりに必要な恵みの雨であるように、イエス様は私たち一人ひとりに愛のまなざしを向け、恵みのみわざを行ってくださるお方であることを忘れないでください。

私たちは、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことはできません。イエス様は「あなたがた天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。だから明日のことまで思い悩むな」と励ましてくださっています。(マタイによる福音書6章参照)数えてみよ、主の恵み。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネによる福音書19章26-27節)

 

イエス様がつけられた十字架のもとに、母マリアとその姉妹(ゼベダイの妻サロメ=マルコ15・40、弟子のヤコブとヨハネの母=マタイ27・56)がいました。マリアがイエス様を初子として主にささげるためエルサレムの神殿に行った時、聖霊に導かれて近づいて来たシメオンがイエス様を抱き、神様をほめたたえました。そして、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)と予告したとおり、十字架につけられたイエス様を見上げるマリアの心は、言葉に言い表わせない悲痛で引き裂かれていたことでしょう。

イエス様は心身ともに耐えられないような十字架刑の激痛の中で、ご自分が父なる神のみもとに帰った後の母の生活をご心配なさって「愛する弟子」のヨハネに託されたのです。ヨハネ(ヨハネによる福音書の筆者)はイエス様の言われたことに忠実に従い、マリアを引き取り、自分の母として仕えました。

愛とは惜しみなく与えることです。マリアは母として愛するイエス様を父なる神様にささげました。イエス様はその愛のゆえにすべての人に命を与えてくださいました。ヨハネはそれに答えて生涯をイエス様にささげました。

私たちはイエス様に何をささげることができるでしょうか。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25-26節)

 

イースターおめでとうございます。

イエス様の復活は、旧約聖書でくり返し預言されており、イエス様ご自身もたびたび予告されていたことです。イエス様の復活はいわゆる蘇生(そせい=生きかえること)とは違います。

死んだ人が復活することなんてことは、人間の常識では考えられないことですし、ましてや信じることなどできないことです。イエス様と三年以上寝食を共にした12弟子でさえも、「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリア(マグダラの)がそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16・11)とあるとおり信じられなかったのです。しかし、イエス様のご遺体を葬った墓はからとなり、その後、復活されたイエス様は再三弟子たちの前に姿を現わされました。

「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリ15・14-15、17、20)

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。(マルコによる福音書10章51節)

 

イエス様一行がエリコの町に来られた時、道端に座って物乞いをしていた盲人バルティマイは、イエス様が通られると聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。人々が叱って黙らせようとしましたが、彼はなお必死で叫び続けます。

イエス様は立ち止まり、盲人を呼び寄せて彼に尋ねられたのが「何をしてほしいのか」です(同章46-54節)。

だれが見ても、この盲人が必死で求めているのは目が見えるようになることでしょう。それなのに、すべてをご存知であるはずの神の御子イエス様がなぜ、「何をしてほしいのか」と尋ねられたのでしょうか。

それは、彼の心の内にあるイエス様に対する信仰を引き出し、彼自身の信仰の言葉として聞こうとなさったからです。そして、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すると盲人は、すぐ見えるようになり、イエス様に従いました(同52節)。

聖書に「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)とあります。

あなたも、心の内にあるイエス様に対する信仰をはっきりと口で告白し、バルティマイのように「上着を脱ぎ捨て、躍り上がり」イエス様に近づきましょう。イエス様はそれを待っていてくださいます。

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ6・8)

 

これは、イザヤが神の呼びかけを聞いて、預言者として献身を決意し、告白した時の状況です。

神はイザヤ個人に向けて呼びかけてはいません。神はイザヤを強制的に召されたのではありません。イザヤは誰とはなしに語りかけられた神の声に自分の方から、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と応答したのです。

イエスは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22・14)と言われましたが、神の御声を聞き分けることができるかどうかは、私たちの心の状態に関わっています。私たちと神との関係がイエス・キリストによって正しく結びついていることが大切です。だからイエスは「耳のある者は聞きなさい」とくり返し警告されたのです(マタイ11・15他)。

エリヤは失望落胆して逃亡し、神の山ホレブにたどり着き、洞穴に身を潜めていた時、非常に激しい風や地震や火のような出来事ではなく、「静かにささやく」神の声を聞くことによって再び預言者として立ち上ることができました(列王記上19章)。

私たちも、祈る時、聖書を読む時、メッセージを聞く時、心の耳を開き、心を集中して神の声を聴きましょう。イザヤを「行け、この民に言うがよい」と押し出されたように、私たちをも遣わしてくださいます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と告白しましょう。

月別のメッセージ

カレンダー

2018年6月
« 5月    
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

facebook


わたしたちの教会は、

聖書信仰に立つ
正統的キリスト教会です。

門真キリスト教会
牧 師:前川 圭司
伝道師:濱崎 恵太
牧 師:濱崎かおり

日本アッセンブリーズ・
オブ・ゴッド教団

関西教区

http://ag-kansai.com 

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団・関西教区

access counter

  • 52632総閲覧数:
  • 3今日の閲覧数:
  • 21昨日の閲覧数: