月刊・シロアム

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。(ルカによる福音書737-38節)

 

町中のだれもが知っている罪深い女(遊女のこと?)、本来ならこのような食事の席に入ることは許されないのに、彼女はイエスの元に来ました。

彼女はイエスの前に自分の罪の深さを自覚するとともに、イエスの数々のみわざを見、また、みことば聞いてイエスの愛を知ったのです。彼女の涙と彼女のしたことは、そのことをよく表しています。

彼女は涙でイエスの足をぬらし、女の命と言われる髪の毛でそれをぬぐい、接吻し、香油を塗りました。彼女は心の底から自分の罪を悔い改めるとともに、自分のできる限りのことをもってイエスに対する愛を示したのです。足への口づけは、奴隷のすることであり、主人に対する絶対服従を示す行為です。

この時、イエス様はこの罪深い女に「あなたの罪は赦された」と、神として彼女の罪が赦されたことを宣言なさいました。そしてさらに「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われ、彼女を罪の生活から解放し、本当の自由の身とされました。

イエス様が語られた「人の子(イエス様)は、失われたもの(いるべき所にいない人)を捜して救うために来たのである」(ルカ1910)が、成就したのです。

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。(マルコによる福音書10章17節)

 

ある人とは青年であり(マタイ19章)、ユダヤの議員(ルカ18章)です。つまり、彼は身分も立場もあり裕福な人です。しかし、彼の心は満たされていなかったのです。だから、彼はイエス様の元へ来ました。

「走り寄って」、「ひざまずいて」、「善い先生」とは、彼がイエス様を信じ尊敬していたことを表しています。

彼は死後のことが心配でした。だから「永遠の命を受け継ぐには、何をすれば良いでしょうか」と尋ねます。するとイエス様は会話のかみ合わない返事、モーセの十戒の五戒から十戒を行うようにと言われ、さらに、彼の財産をお金に換えて貧しい人々に施すようにと言われました。

それに対し彼は、「律法はみな、子どもの時から守っています」と答えました。

イエス様は決して彼に貧しい人々のために自分を犠牲にして無一物になれと言われたのではありません。人の心を見られる主は、自己義を主張する彼の傲慢を見抜かれて、律法の心である「愛」を実行するようにと戒められたのです。しかし、彼は「悲しみながら立ち去った」のです。彼は主イエス様に求めた「永遠の命」を得ることができませんでした(10章17~22参照)。

永遠の命とは、人間の努力や修業によって得られるものではありません。「唯一のまことの神とその御子であるイエス・キリストを信じる」ことで与えられるのです(ヨハネ17・3参照)。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。(Ⅱコリント4章7節)

 

新年明けましておめでとうございます

今年の門真キリスト教会の標語は「私の持っているもの」です。そのことについて考えてみましょう。

ペトロとヨハネが、神殿に祈りに行くと、神殿の「美しの門」のそばで、生まれながらに足の不自由な人が物乞いをしていました。すると、ペトロはその人に「私にはお金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、手を取って立ち上がらせ、いやしました(使徒言行録3・1~8参照)。

パウロも、自分の力によってではない偉大な神の力によって与えられた宝を自分の内に持っていると言っています。その宝とは何でしょうか。

それは、もちろんこの世のものではありません。私たち一人ひとり愛してくださっている唯一まことの神に背いて、勝手気ままに生きている罪を認め、悔い改めて、その罪をあがなうために、一人ひとりの身代わりとなって十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に死よりよみがえってくださった、神の御子イエス・キリストを信じる人に与えられているもの、金銭では買うことのできない永遠の命(キリストの命)です。だからこそそれは宝です。

イエス様を救い主と信じるあなたも持っている宝、イエス様をペトロやヨハネのように、まだ持っていない人々にお分かちする一年としましょう。

言(神の御子イエス)は肉となって(人間となって)、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。(ヨハネによる福音書 1章14節)

 

クリスマスをあなたと共に心から喜んでいます。

初めの聖句は、恵みと真理に満ちた父なる神様の栄光を、人の子としてこの世に来てくださったイエス様によって見たと言っています。それは、

「わたしを見た者は、父を見たのだ」(同14・9)とイエス様が言われたことの成就です。なぜなら「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(同5・19~20)とも言われているからです。つまり父なる神様と御子イエス様は一体だということです。

クリスマスの日に、ユダヤの国のベツレヘムの馬小屋でイエス様が産声をあげられたのは、父なる神様の約束(旧約の預言)の成就です。

私たち一人ひとりは、創造主なる神に「かたどって=像(かたち)に・似せて」創造されました。しかし、背信の罪によって神との交わりが断絶し、「神のかたち」を失ってしまい、真の神の代わりに自分に都合の良い神々の偶像を作りそれを拝んでいるのです。

神様は、そんな私たちをも愛し、見捨てることなく、ご自身との関係を回復するために、イエス様を私たちの間(ただ中)に宿らせ(定住させ・寄生させ)てくださったのです。十字架にかかり、私たちの罪を贖うために。

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。(マタイによる福音書 9章28節)

 

通り過ぎようとするイエス様に対し二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらついて来ました(同27節)。

「ダビデの子よ」とは、父なる神様が、ダビデ王の子孫からメシヤ(油注がれた者=救い主)が生まれると約束されていたことです。二人の盲人がそのように叫んだということは、彼らがイエス様を救い主と信じていたということです。すると――

イエス様は二人の信仰を試すかのように「わたしにできると信じるか」と尋ねられました。

私たちも毎日の生活の中で、いろいろな問題や悩みに試みられる時、イエス様は、あなたにも「わたしにあなたの問題の解決ができると信じるか」とお尋ねになります。その時、あなたは二人の盲人のように「はい、主よ、できると信じます」と答えましょう。

そして、イエス様が二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになりました(同29-30節)。

二人の盲人は「私たちの目が見えるようにしてください」ではなく、「私たちを憐れんでください」と、謙遜にイエス様の憐れみにすがったのです。

あなたもこの盲人のように、イエス様の前にへりくだり、イエス様の愛と憐みによりすがって叫び求めようではありませんか。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9・22)。

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